国内総生産(GDP)は1940年代に生まれた。資源や物資など戦争を遂行できる生産力がどれだけあるか正確に把握する指標として、米英が開発した。「第2次世界大戦が生んだ数多くの発明品の一つ」と英ケンブリッジ大のダイアン・コイル教授は位置づける。
世界に占める日本のGDPは、百年前と同じ水準に逆戻りしている――。英国の経済学者アンガス・マディソン氏の研究チームは、西暦1年から今に至る世界各国のGDPを歴史資料から推計してきた。そこから浮かび上がってきたのは、そんな日本の姿だ。
日本のGDPの世界全体に占める割合は1920年は3・4%。それが戦後の経済成長で急伸。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などと称された。米国の地位をも脅かす経済力を誇った90年には8・6%に上昇した。
だが、その後、中国をはじめ新興国の経済成長が加速。日本は人口減社会に突入して主要7カ国(G7)で唯一足踏みを続け、2022年には3・7%に落ち込んだ。
現在の日本のGDPは世界4位。米ゴールドマン・サックスによれば、さらに50年に6位、75年には12位へ転落が予想される。日本は近い将来「経済大国」の看板を下ろすことになるかもしれない。
一方、岸田政権は一昨年末、27年度の防衛費のGDP比を倍増させ、2%にすることを決めた。27年度の防衛費は世界5位内に入り、「軍事大国」に仲間入りする可能性がある。
問題は、この歴史的増額が果たして「国力」に見合っているのかだ。マディソン氏の研究チームの一員である深尾京司・一橋大特命教授(国際経済学)は「人類史上稀(まれ)に見るスピードで人口が減少していく日本の世界における経済的地位が、当面再び高まることは考えづらい。日本が単独で防衛費を拡充しても限界がある」と指摘する。
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「DIME(ダイム)」という言葉がある。「外交(Diplomacy)」「情報(Information)」「軍事(Military)」「経済(Economy)」の頭文字を取ったものだ。米国が安全保障の指導者育成のため設立し米軍の将校や文官らが在籍する米国防大のテキスト「国家安全保障入門」では国家安全保障の構成要素にこの四つを挙げ、DIMEを駆使して目的を追求するとしている。軍事だけでは国の安全が担保できない。DIMEを統合して国の安保を確保する、というのが、欧米では常識となっている。
近年では中国に対抗するため、「技術(Technology)」を加えた「DIME+T」とも呼ばれる。日本では安保を考える際、これまでDIMEという言葉はほとんど聞かれなかった。
だが日本はかつて「国力」から目をそむけて軍事偏重に走った結果、人的・物的破局を招いた。
むろん、過去と事情は異なる。安保環境の変化を踏まえた防衛力の要素は必要だろう。だが今、安保を議論するのに、軍事以外の要素が、あまりに軽視されてはいないか。
岐路に立つ今だからこそ、「国力」を重層的に、冷静に見つめる視点が求められている。(大日向寛文、編集委員・佐藤武嗣)
日本の安全保障にDIME(ダイム)の発想はあるのか。
一昨年改定された「国家安全保障戦略」には「外交力・防衛力・経済力・技術力・情報力を含む総合的な国力を最大限活用して、国家の対応を高次のレベルで統合させる戦略が必要」とある。
これまで、安全保障は米国を最重視し、経済面では最大の貿易相手国・中国との協力を深めてきた。だが、その米中の対立は、経済や技術といった非軍事の分野にまで拡大。安全保障の裾野が広がるなか、日本もいや応なく「踏み絵」を迫られている。自国の国力を見つめ、「国益」を見定めていこうという趣旨だ。
しかし、中身を見ると経済や外交に関する記述は乏しく、経済安保の項目も他の記述とのつながりがない。「戦略」の一部分を担当したある省の幹部は「戦略の全体像の議論もなく、他の項目の記述も見せてもらえず、一部の項目だけ割り振られた」と不満をもらす。DIMEを掲げてはいるが、「軍事」に重きが置かれ、政府一体の「総合的な国力」の底上げを図ろうとの意識は薄い。
歴史的な増額を決めた防衛費の財源も宙に浮いたままだ。岸田文雄首相が確保したとする財源の大半は、1度しか使えない国有財産の売却など安定財源にはほど遠い。
戦略の策定に先駆け首相官邸が設置した有識者会議で、エコノミストの翁百合・日本総合研究所理事長は「防衛力強化には、持続的な経済、財政基盤強化と国民の意識の共有が大変重要だ」と訴えた。エネルギー自給率の低さや、債務残高の国内総生産(GDP)比の高さなどリスクも指摘した。DIMEに通じる考え方だが、会議は3カ月間に4回開かれただけで議論は煮詰まらず、メンバーも不満を口にした。
戦前の日本もDIME的発想で国力を見つめようとしたことがあった。
第1次世界大戦後のワシントン海軍軍縮条約で戦艦の保有制限の受諾を決めた、加藤友三郎海相(後に首相)は「国防は軍人の専有物にあらず」「国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養(かんよう)し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず」と本国に伝えた。だが日本は1933年の国際連盟脱退に続き、翌年に海軍軍縮条約からも離脱。軍艦建造競争の末、45年に破局を迎えた。
欧州でナチス・ドイツと英仏が衝突した39年9月には、帝国陸軍内部に「戦争経済研究班」(秋丸機関)が設置され、秋丸次朗・陸軍中佐が学者に委嘱し、対英米戦に踏み切った場合の勝算を経済的側面から分析。日米開戦半年前の41年7月に「経済戦力の比は20対1程度と判断するが、開戦後2年間は貯備戦力によって抗戦可能、それ以後は我が経済戦力は下降をたどり、持久戦には耐えがたい」との報告書をまとめている。
40年9月には近衛内閣が「総力戦研究所」を設置した。「武力、思想、政略、経済戦を一元的に総合せる総力戦に関する体系の研究の不十分なる現状を打開すること」を目的とした。だが、こちらも41年8月、対米戦争は「必敗」と報告した。
だが、当時の東条英機陸相らはこうした分析を聞き入れなかった。秋丸機関を率いた秋丸氏は、敗戦から30年以上経ち、「秋丸機関の顛末(てんまつ)」を執筆し、こう語った。
「既に開戦不可避と考えている軍部にとっては都合の悪い結論であり、消極的平和論には耳を貸す様子もなく、大勢は無謀な戦争へと傾斜した」
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前出のマディソン氏の研究チームの推計をみると、日本は勝敗にかかわらず経済力にそぐわぬ戦争を繰り返してきた。朝鮮出兵直後の1600年、中国のGDPは日本の約10倍。日清戦争直前の1890年は同じく約5倍、日露戦争直前の1900年のロシアは日本の2・5倍だった。
経済協力開発機構(OECD)によると、現在の中国のGDPは日本の5・3倍で、2050年に7・4倍に広がる見通しだ。太平洋戦争開戦時の日米格差4・9倍を上回る。外交力を駆使しなくては、防衛力だけで安全保障は成り立たない。
国力を考えるうえで百年前と現代で決定的に違う要因もある。社会保障だ。日本を含む先進国は戦後、国家の役割を拡大。インフラ整備のほか医療や年金などの社会保障を充実させた。その結果、国民の負担は戦前より大幅に高まっている。
1934~36年は13・8%だった租税負担率は、今年度は26・7%だ。戦前はほとんどなかった社会保険料を含めた国民負担率は45・1%に及ぶ。防衛力強化のために追加で国民負担を求める余地は乏しい。
1920年には65歳以上の高齢者は20人に1人しかいなかったが、国立社会保障・人口問題研究所(中位推計)によると昨年は4人に1人を超えた。2070年には38・7%になる見通しだ。急速な高齢化のなか、医療や介護をはじめ社会保障費が増え、国民負担が上昇していくのは必至だ。
自民党国防族のなかには借金をあてに防衛費の増額を求める声もある。岸田首相は22年、戦後初めて建設国債を防衛費に充当することを認めた。首相が掲げる「GDP比2%」は北大西洋条約機構(NATO)並みというが、財政はすでに火の車だ。国の借金残高は1千兆円を超え、GDP比(24年度末、2・4倍)は、ほぼ2倍だった先の大戦時を上回る。
通貨の力も落ちている。円の対ドル相場は今年4月、一時160円台に突入した。約34年ぶりの円安水準となる。ユーロなどドル以外の通貨や物価を考慮すると、凋落(ちょうらく)はより深刻だ。
薄型テレビや半導体の世界シェアは急落し、ITサービスは、GAFAと呼ばれる米国勢に席巻された。日本経済を先導した技術力も色あせた。
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安全保障環境の変化に応じて、防衛費を増やす選択肢はあるだろう。しかし、戦間期~開戦前にも指摘されていたように、国力に照らして無理のない計画か否かが問われる。世界で類を見ないほどの財政状況のなか、借金頼みの防衛費増額に持続性があるのか。
中国からの圧力を甘受せよということではない。自衛隊幹部は「(防衛力を強化しても)抑止力が破られたら、それは敗北だ」と語る。足元の「国力」を見つめ、「外交手段により戦争を避くる」ことに専念すべきだとした加藤友三郎の問題提起は、いまも重い。
米歴史家のハル・ブランズ氏は、日米には台湾侵攻を試みても成功しないと中国に思わせる抑止力を持つ「決意」が必要だと説く。その同氏も「決意と同時に、自制も必要だ」と語る。
石油の対日禁輸など米国による「封じ込め」は日本の暴発を誘い、日米開戦につながった。この歴史の教訓を念頭に「台湾独立を支援したり、ピークを迎え、衰退への懸念を抱く中国が直面する課題を利用したりせず、(中国に)安心感を与える必要もある」と語る。(編集委員・佐藤武嗣、大日向寛文)
◇二つの世界大戦の『戦間期』に着目するこの企画は、初回(7月30日付朝刊)で百年前と現代との類似性に着目しました。次回は世論と戦争の関係を考えます。百年ほど前、のちの首相・幣原喜重郎が憂えた「人心の傾向」とは――。