2024年8月9日(金)
きょうの潮流
「赤い背中の少年」の写真を凝視していた幼少期の記憶。目を閉じ青ざめた表情に、生きてるの? 死んでるの? そばにいた父に「この子、死んだっちゃろ?」と尋ねました
▼「なんばいいよっとか。生きとうくさ!」。尊敬する被爆者・谷口稜曄(すみてる)さんに失礼だと、福岡県原水協で働いていた父は、語気を強めました。1970年代のことです
谷口稜曄たにぐちすみてる
1929~2017
日本被団協代表委員
あの人に会いたいFile No. 528
平成29年8月に88歳で亡くなった谷口稜曄(すみてる)さん。長崎で被爆し、背中一面に重度の火傷を負う。背中の痛みと闘いながら、原爆の残酷さと核兵器の廃絶を訴え続けた。被爆したのは16歳の時。郵便配達の仕事中だった谷口さんは原爆の熱線で背中一面を焼かれたが、奇跡的に命を取り留めた。うつぶせのまま身動き一つ出来ずに治療を受ける谷口さんの姿を写した映像の存在を知ったのは40歳を過ぎた頃。それ以後、被爆体験について積極的に語るようになる。「私の背中は見世物ではない。誰がこれをやったのか知ってほしい」。“赤い背中”をつきつけながら、原爆の残酷さを訴え続けた生涯だった。
https://www.antiatom.org/peace_march/
▼谷口さんは当時、背中の痛みに耐えながら、各地で語り部の活動に。「アメリカには何時間もかかるけん、飛行機の中で寝るやろう。谷口さんは背中が痛むから、夜もリクライニングにせず、背中をまっすぐに立てたままやった」と父
▼体にケロイドや障害を負い、放射線に蝕(むしば)まれた被爆者にとって、遠距離の旅は命がけでした。それでも、“世界の誰にも同じ地獄を味わわせない”と国連をはじめ各国でスピーチしました
▼苦しみは病魔だけでなく、貧困や障害者差別、放射能被曝(ひばく)への差別もありました。核兵器廃絶の運動にたいして「売名行為」「アカ」とレッテルを貼る心ない攻撃を受けたことも。原爆投下のその年、広島と長崎では20万を超える人々が亡くなりましたが、生き残った人々の地獄の始まりでもあったのです
▼2017年、核兵器禁止条約の採択を見届け、谷口さんは永眠しました。先日、広島で開かれたNGO討論会で共産党の田村智子委員長は、「『核抑止論』の呪縛を断ち切り、核兵器禁止条約への参加を決断することが求められている」と。被爆者の苦難に報いるべき時です。