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(憲法を考える)生活保護、車の保有はぜいたく? 2023年9月26日 5時00分

憲法を考える)生活保護、車の保有はぜいたく? 生存権が示す「最低限度の生活」の線引きは

 

 ■憲法を考える 視点・論点・注目点

 移動に必要な車を持つことが認められない生活保護世帯から、切実な声が上がっている。憲法25条が定めた「生存権」の理念を実現するはずの生活保護制度で、車は「資産」として原則保有が認められていないからだ。公共交通機関が不便な地方で、移動の手段として持つことも許されないのか――。学説の移ろいをひもときながら、「健康で文化的な最低限度の生活」について考える。

 

 ■地方で持病ある私の「足」、処分は死活問題

 三重県鈴鹿市のアパートに独りで暮らす女性(71)を訪ねた。インターホンを鳴らすと、室内で気配はするが、なかなか姿が見えない。数分後、ドアを開けた女性が「ごめんなさいね、時間がかかっちゃって」と頭を下げた。

 首やひざの関節が痛む持病で、杖が手放せないという。玄関を出て、足を引きずりながら20メートルを歩くのにかかった時間は、8分超。駐車場に止めた自家用車までの距離だ。

 日用品を買うのは、自宅から150メートルほど離れたスーパー。数年前までは何とか歩いて通えたが、症状が悪化して今ではたどり着けなくなった。ひざに負担のかからない運転はできるため、買い物は車に頼らざるを得ない。「車は私の『足』なんです」

 幼いころから動物好きで、ペットの美容室を開業。体を洗うため中腰の姿勢を続けてきた。30年以上働いた末に、「頸椎(けいつい)症性脊髄(せきずい)症」を発症。身体障害者1級となり、2010年から生活保護を受けるようになった。

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 <資産とみなされ> 昨秋、鈴鹿市から通知が届いた。「あなたの世帯の生活保護を停止します」

 問題視されたのは、女性の自家用車だ。市は「資産」とみなし、生活保護を受給するにあたり処分を求めていた。女性が乗っているのは20年前に買ったトヨタカローラ。調べたところ、売れるどころか「処分するのに約1万5千円かかります」と言われた。

 しかし、市は女性に対し、車の売却を前提に「処分の見積書をとるように」と指示。口頭や文書での指導に女性が従わず、弁明を聞くための聴聞会も欠席したなどとして、生活保護を停止した。女性は処分の取り消しを求め、昨年11月に津地裁に提訴した。

 市はタクシーや公共交通機関を使うよう求めてきたが、最寄りのバス停は400メートルほど先。女性の代理人の芦葉甫(はじめ)弁護士が市内のタクシー会社5社に照会したところ、至近距離の移動のために車を呼ぶのは難しく、「流し」の営業をしている社も無かった。

 生活保護を受けてようやく家賃や食費を支払ってきた。電気代高騰で、この夏はクーラーも節約して使った。

 芦葉弁護士は言う。「車がなければ家に閉じこもるしかない。『車=ぜいたく品』は、公共交通網が発達した大都会の発想だ。地方に住んでいたり、障害があったりして、車を取り上げられることが死活問題になる人もいる」

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 <認められた例も> 憲法には「生存権」が定められている。その理念に基づき、困窮するすべての人に最低限の生活を保障し、自立を助けるのが生活保護制度だ。

 「『最低限の生活』とはどういう状態か。生活保護ではその線引きが問題となっている」と、吉永純・花園大教授(公的扶助論)は話す。

 自転車、電話、冷蔵庫、エアコン――。いずれも、過去「高価な資産」として生活保護世帯には認められなかった日用品だ。冷蔵庫を持つことを許されなかった母子家庭の心中や、エアコンを取り外された高齢女性が衰弱した事件などが問題となり、その後保有が認められてきた。

 車の保有を巡っても、これまで多くの訴訟が起こされ、09年の福岡地裁や13年の大阪地裁などで、保有を認めない自治体側が敗訴したことがある。こうした経緯もあり、自治体側は山間地に住む人や障害者らに条件付きで保有制限を緩和してきた。それでも、原則として認められていないのが現状だ。

 厚生労働省は「保有のための維持費がかかり、また、社会通念上その保有を適当としない面もある」とする。

 吉永教授は「維持費は、障害者への追加給付を充てるなどすればまかなえる。結局、国民感情として生活保護世帯が車を乗り回すのはいかがなものか、という本音が透ける」と指摘する。

 鈴鹿市の女性のように、公共交通機関が不便な地方では、車が生活の足として欠かせない。国の硬直的な対応は、地方の生活実態とかけ離れているという批判も多い。

 吉永教授は「生存権は、ただ単に生きるだけの権利ではない。買い物をし、知人に会い、余暇を楽しむことは、社会から排除されない権利とも言える。車という足を奪うことは、社会の一員として認めないのと同じだ」と話す。

 

 ■欧州生まれの「権利」、続く議論

 「生存権」とは、どのような権利なのだろうか。

 「基本的人権」には、思想信条の自由や表現の自由など、国家からの侵害を排除する「自由権」がある。

 これと性格が異なる権利として、弱者保護などを国家に求める「社会権」がある。資本主義経済の発達で貧富の差が拡大した19世紀後半の欧州で生まれた考え方だ。代表的なものが生存権とされる。

 「人間に値する生存」が保障されるべきだと明記したのがドイツのワイマール憲法だ。社会学者の森戸辰男はこの影響を受けたと言われる。戦後、共に衆院議員となった鈴木義男と、生存権を新憲法に盛り込むよう主張した。

 1948年、最高裁生存権について判断を下した。食糧管理法違反事件の判決で、「すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るよう国政を運営すべきことを国家の責務として宣言したもの」に過ぎないとした。つまり、国民は具体的権利を持たないというわけだ。

 「権利」と書かれていても、実際は国の努力目標に過ぎない――。こうした考え方は「プログラム規定説」と呼ばれる。食管法事件での判断はその後の裁判でも踏襲された。「法的な権利だ」と主張する学者らから批判された。

 障害福祉年金と児童扶養手当の併給禁止の違憲性を訴えた82年の「堀木訴訟」で、最高裁は「健康で文化的な最低限度の生活」は抽象的・相対的な概念だと指摘。どんな立法をするかは国会に広い裁量があるとした。生存権に詳しい早稲田大の遠藤美奈教授(憲法学)は「この壁が今も越えられていない」と話す。

 一方、プログラム規定説は60年代以降後退する。重要判決が重なって憲法25条の理解が深まり、判例の再検討も進んだ。90年~2000年代には生活保護を巡る訴訟も頻発。「生存権を裁判で争えることまで判例も否定していなかったことが、改めて確認された」と遠藤教授は分析する。議論の焦点は、生存権が努力目標か法的権利かではなく、権利であることを前提とした上で「立法や行政の裁量権にどれだけ縛りをかけられるか」に移っていった。

 近年、社会権の議論は国際的に活況だという。南アフリカで、貧困層に住宅を供給する政策の不備を国に指摘する判決などが契機となり、社会権の訴訟は世界に広がった。ドイツでは最低生活保障を巡り、司法が政治の裁量プロセスを精査し、困窮者救済につなぐ判決が積み重なった。「日本でもこれらの判断を手がかりに、政治部門の裁量を枠づけようとする研究が進んでいる」と遠藤教授は話す。

 

 ■何かと引き換えの保障、おかしい 取材後記

 「生活保護をとるか、車をとるか」。生活に困窮し、最後に頼った行政にこう迫られて、生活保護をあきらめる人が多いという。地方では、車に頼らないと生活ができない人も少なくないからだ。

 今回取材した女性も、そうした一人だ。暮らし向きは苦しい。スーパーの見切り品頼みの生活をしても、月末には現金が無くなる。「明日、食べ物を買えないかもしれない。恐怖です」と話した。

 車を奪われれば、彼女は生活費を切り詰めてタクシーに乗るしかない。それが果たして可能か。

 厚生労働省の担当者は「車を持てない低所得者とのバランスも考えないといけない」という。しかし、何かと引き換えにしないと、「最低限度の生活」さえ保障されないこの国は、「福祉国家」の名に値するのだろうか。(後藤遼太)

 

 ■予告

 次回は10月31日に掲載する予定です。