日航機墜落事故の遺族の女性(90)から届いた一通のLINEをきっかけに家族の遺品の謎を追う取材を始めた。まずは祖父の遺品だ。
口ひげを蓄え、軍服をまとい、刀剣を携えてレンズをにらみつける。東京都内で暮らす池田知加恵さんの自宅に残る祖父純孝(すみたか)さん(1864~1929)の写真だ。
日露戦争への出征前後に撮影されたものらしい。
池田家に私蔵されていた関東大震災の写真アルバムは、この人物によってつくられた。
アルバムには被災を伝える45枚の写真のほかに、「震域ト震源分布」とする図や、「東京焼失区域」という手書きの地図も描かれている。黒い台紙に白い線で地形がかかれ、被害が大きかったエリアは赤で色分けされている。
被災の概要が端的に伝わり、新聞記者の目からも「わかりやすい図だな」と感心する。
東京都復興記念館(墨田区)の森田祐介調査研究員は「軍人なので、戦略地図などを書き慣れていたのかも知れません」と話す。
肖像から伝わる勇ましさとは異なり、純孝さんは手先が器用で、きちょうめんな性格だったようだ。
そんな純孝さんの人柄をしのばせる別の遺品が、池田家には残されている。
「押し花」の冊子だ。
「骨董品が好きでだまされてばかり」
日露戦争の最中、乃木希典に仕えて奉天(現在の中国瀋陽)に赴いた際、現地で草花を採取し、つくったものだという。
純孝さんは1904年の「旅順攻囲戦」から翌年の「奉天会戦」のあたりまで、乃木の部下として部隊の食糧を管理する「糧餉(りょうしょう)部長」を担っていたという。
そのときに、ハギやハッカ草など現地で採取したたくさんの草花を採取し、和紙に挟んで「押し花」にして冊子にまとめていた。いわば、手作りの「植物標本」だ。
表紙には、薄緑色のきれいな柄の布が使われていた。池田家では「もとはロシアのカーテンかテーブルかけ」だと伝えられている。
冊子には押し花のほか、上官らが「揮毫(きごう)」した半紙も複数閉じられていた。乃木の書もあり、そこには「春色秋芳無尽蔵 乙巳三月 於法庫門、石樵典題」と書かれていた。
「法庫門」とは満州・奉天の北にあった国境の門のことで、「乙巳三月」は、1905年3月に書かれたことを意味するとみられる。冊子がつくられたのは、日本軍とロシア陸軍が満州の奉天周辺で戦っていた、まさにその頃ということになる。
苛烈(かれつ)だったであろう戦いの最中に押し花を?
息子の純久さんも同じ感想を抱き、「いくさといってもずいぶん余裕があったもんですね」と晩年に尋ねたことがあるそうだ。
息子からの問いに純孝さんは「朝から晩まで戦っていたわけではない。兵士の中にも、植物に研究心の盛んな者がいた」と答えたという。
部隊の栄養管理を担う責任者として、食糧不足に備えて植物に関心を寄せていたのかもしれない。
ほかに、純孝さんが日露戦争から持ち帰った遺品に「ロシアの飯盒(はんごう)」がある。直径15センチのアルミ鍋で、ロシア兵が戦場で使っていたものだと伝わる。池田家ではこれを、おかゆを炊くときに使っていたそうだ。
純孝さんについて、孫の知加恵さんは「生まれる前に亡くなっていたのでよくわからない」。ただ、祖母が「骨董(こっとう)品が好きでだまされてばかり」と嘆いていたことを覚えている。
「珍しい」「興味深い」と感じたものを集め、整理して手元に置いておく。そんな人柄だったとすると、関東大震災のアルバムをつくったのもうなずける。
父と同じ軍人の道へ
純孝さんは関東大震災から6年後の1929年3月、65歳で亡くなった。ニューヨークの株価暴落に始まる世界恐慌が起きた年だ。その後、日本は次第に戦争へと進んでいく。
アルバムなど純孝さんの数々の遺品は池田家で大切に保管されてきた。
出征中の純孝さんに息子が送った絵はがき(軍事郵便)も複数残されていた。
「(友人と)魚釣りに行って居ります」「運動會ヲ見ニ行キ候」など、のどかな日常を伝えるものが多い。「父上サマのガイセンヲマチモヲシマス」という一文もあった。
父の背を追ってか、時代の空気に押されてか。
絵はがきの送り主だった息子、純久さんも軍人の道を歩み始める。
父が亡くなった年から3年間は、陸軍の派遣学生として東京帝国大学経済学部で学び、その後参謀と重用された。戦争末期には関東軍参謀副長となり、終戦時には内閣総合計画局長官を務めた。
その純久さんが、生涯大切に保管してきた一枚の絵が池田家に残されている。
日本を終戦へ導いた1945年8月の「御前会議」の絵だ。昭和天皇が「聖断」を下したとされる歴史的場面が記録されている貴重な絵画。それがなぜ、池田家に存在するのか。いったい誰が描いたのか。(佐々木学)