水落(読み)みずおち
精選版 日本国語大辞典 「水落」の意味・読み・例文・類語
みず‐おち みづ‥【水落】
作庭記(読み)さくていき
精選版 日本国語大辞典 「作庭記」の意味・読み・例文・類語
さくていき【作庭記】
九条良経
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時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代初期 |
生誕 | 仁安4年(1169年)3月 |
死没 | 元久3年3月7日(1206年4月16日) |
別名 | 後京極摂政、中御門摂政 |
官位 | 従一位、摂政、太政大臣 |
主君 | 高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇 |
氏族 | 九条家 |
父母 | 父:九条兼実、母:藤原兼子(藤原季行の娘) |
兄弟 | 良通、良経、任子、良円、良平、良快、良輔、良尋、良海、良恵、玉日 |
妻 | 一条能保の娘、藤原寿子(松殿基房の娘) 左馬助政綱の娘、大膳大夫信成の娘 |
子 | 立子、慶政、道家、教家、基家、良尊、道慶 養子:良平 |
九条 良経(くじょう よしつね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿・歌人。関白・九条兼実の次男。官位は従一位・摂政、太政大臣。九条家2代当主。後京極殿と号した。通称は後京極摂政(ごきょうごく せっしょう)、中御門摂政。
経歴[編集]
治承3年(1179年)元服し、従五位上に叙せられる。元暦2年(1185年)従三位[注釈 1]。文治4年(1188年)、同母兄・良通が早世したため兼実の嫡男となった。その後も権中納言、正二位、権大納言と昇進し、建久6年(1195年)に内大臣となった。しかし翌年11月、反兼実派の丹後局と源通親らの反撃を受けて父と共に朝廷から追放され、蟄居を余儀なくされた(建久七年の政変)。
正治元年(1199年)、左大臣として政界復帰を果たし、その後内覧となる。そして建仁2年(1203年)12月、土御門天皇の摂政となり、建仁4年(1204年)には従一位・太政大臣となった。しかし元久3年(1206年)3月7日深夜に頓死。享年38。
人物[編集]
良経は和歌や書道、漢詩に優れた教養人だった。特に書道においては天才的で、その屈曲に激しく線に強みを加えた書風は、のちに「後京極流」と呼ばれた。また、叔父慈円を後援・協力者として建久初年頃から歌壇活動が顕著になり、同元年『花月百首』、同4年頃『六百番歌合』などを主催した。その活動は御子左家との強い結びつきのもとで行われたが、六条家歌人との交流もあった。この良経歌壇は、のちに『新古今和歌集』へと結実していく新風和歌を育成した土壌として大きな役割を果たす。その後は後鳥羽院歌壇へ移行し、良経を含む御子左家一派は中核的な位置を占める。
建仁元年(1201年)、和歌所設置に際して寄人筆頭となり、『新古今和歌集』の撰修に関係してその仮名序を書いた。自撰の家集『秋篠月清集』(月清集)は六家集のひとつとなっている。『後京極殿御自歌合』も作風を知る上で好資料となる。日記に『殿記』、著作に『大間成文抄』がある。
小倉百人一首では「後京極摂政前太政大臣」として知られる。91番「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかもねむ」
官歴[編集]
※日付=旧暦
- 1179年(治承3年)4月17日、元服し、従五位上に叙位。8月26日、禁色と昇殿を許される。10月9日、侍従に任官。
- 1180年(治承4年)4月21日、正五位下に昇叙、侍従は元の如し。
- 1182年(養和元年)12月4日、右近衛少将に転任。
- 1182年(寿永元年)11月17日、左近衛中将に転任。
- 1183年(寿永2年)1月7日、従四位下に昇叙、左近衛中将は元の如し。
- 1185年1月23日(元暦元年12月20日)、正四位下に昇叙、左近衛中将は元の如し。
- 1185年2月7日(元暦2年1月6日)、従三位に昇叙、左近衛中将は元の如し。1月20日、播磨権守を兼任。
- 1187年1月26日(文治2年12月15日)、正三位に昇叙、左近衛中将・播磨権守は元の如し。
- 1187年(文治3年)1月23日、従二位に昇叙、左近衛中将・播磨権守は元の如し。
- 1188年(文治4年)1月6日、正二位に昇叙、左近衛中将は元の如し。
- 1189年(文治5年)閏4月8日、権中納言に転任、左近衛中将は元の如し。7月10日、権大納言に転任。
- 1190年(文治5年)12月30日、左近衛大将を兼任。
- 1190年(建久元年)7月18日、後鳥羽天皇の中宮で良経の異母妹九条任子の中宮大夫を兼任。
- 1195年(建久6年)11月4日、内大臣に転任。11月12日、左近衛大将は元の如し。
- 1198年(建久9年)1月19日、左近衛大将を止む。
- 1199年(正治元年)6月22日、左大臣に転任。
- 1203年(建仁2年)11月27日、内覧宣下。左大臣は元の如し。12月25日、摂政宣下。左大臣は元の如し。列座は、正二位守太政大臣藤原頼実の次座。一座とはならず。
- 1204年(建仁4年)1月5日、従一位に昇叙し、摂政・左大臣は元の如し。11月16日、左大臣を辞任。12月7日、太政大臣従一位藤原頼実、辞任により一座。
- 1205年1月5日(建仁4年12月14日)、太政大臣宣下。摂政は元の如し。
- 1205年(元久2年)4月27日、太政大臣を辞任。
- 1206年(元久3年)3月7日、薨去。享年38。時に摂政従一位。
系譜[編集]
- 父:九条兼実
- 母:藤原兼子 - 藤原季行の娘
- 妻:一条能保の娘(1167-1200) - 源頼朝の姪
- 妻:藤原寿子(?-1222) - 従二位、松殿基房の娘
- 妻:左馬助政綱の娘(姓不明) - 宜秋門院女房
- 男子:良尊
- 妻:大膳大夫信成の娘(または信業、姓不明)
- 男子:道慶
- 養子
また、慶政上人も良経の子とされる。
九条兼実
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九条兼実像『天子摂関御影』より
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時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代初期 |
生誕 | 久安5年(1149年) |
死没 | 建永2年4月5日(1207年5月3日) |
改名 | 兼実→円証(法名) |
別名 | 月輪殿、後法性寺殿 |
墓所 | 京都市東福寺 |
官位 | 従一位、摂政、関白、太政大臣 |
主君 | 後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇 |
氏族 | 藤原北家御堂流九条家 |
父母 | 父:藤原忠通、母:加賀局(藤原仲光の娘) |
兄弟 | 恵信、覚忠、聖子、近衛基実、 松殿基房、育子、兼実、尊忠、道円、信円、兼房、慈円、最忠など 養兄弟:呈子 |
妻 | 藤原兼子(藤原季行の娘) 藤原顕輔または藤原頼輔の娘、 八条院三位局(高階盛章の娘) |
子 | 良通、良経、任子、良円、良平、良快、良輔、良尋、良海、良恵、玉日 |
九条 兼実(くじょう かねざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家、関白・藤原忠通の六男。官位は従一位・摂政・関白・太政大臣。月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれる。通称は後法性寺関白(ごほっしょうじ かんぱく)。五摂家の一つ、九条家の祖であり、かつその九条家から枝分かれした一条家と二条家の祖でもある。五摂家のうちこの3家を九条流という。
摂政・関白藤原忠通の六男。母は、家女房で太皇太后宮大進・藤原仲光の娘・加賀。同母兄弟4人の中の長子である。同母弟には、太政大臣となった兼房・天台座主となった慈円などが、また異母兄には近衛基実、松殿基房が、異母弟には興福寺別当となった信円らがいる。
兼実が40年間書き綴った日記『玉葉』は、当時の状況を知る上での一級史料となっている。
生涯[編集]
有職の公卿[編集]
久安5年(1149年)、摂政・藤原忠通の六男として生まれる。母の身分は低かったが、異母姉である皇嘉門院の猶子となり(『兵範記』保元元年正月4日条)、保元3年(1158年)には兄・基実の猶子の資格で元服、正五位下に叙せられ、左近衛権中将に任ぜられる。永暦元年(1160年)には従三位となり、公卿に列した[注釈 1]。
保元の乱で勢力を後退させた摂関家は、故実先例の集積による儀礼政治の遂行に特化することで生き残りを図ろうとしていた。皇嘉門院の庇護を受けて兼実も学問の研鑽を積み、有職故実に通暁した公卿として異母兄の基実・基房に次ぐ昇進を遂げる。長寛2年(1164年)に16歳で内大臣、仁安元年(1166年)に18歳で右大臣に進んだ。兼実は若年ながら公事・作法について高い見識を有し、特に左大臣・大炊御門経宗の作法については違例が多いと厳しく批判している。しかし、兼実の官職はこの時から20年間動くことはなく、永らく右大臣に留まった。これは欠員が出ず昇進が頭打ちになったこともあるが、所労・病悩を訴えて朝廷への出仕が滞りがちだったことも要因の一つとして考えられる[注釈 2]。
治承・寿永の乱[編集]
治承3年(1179年)11月、平清盛はクーデターを起こし後白河法皇を幽閉、関白・松殿基房を追放するが(治承三年の政変)、これは兼実に思わぬ僥倖をもたらした。新たに関白となった近衛基通は公事に未練であったため、平氏は兼実にその補佐役としての役割を期待して、兼実の嫡男・良通を権中納言・右大将とする優遇策に出た。兼実は平氏から恩顧を与えられることを「生涯の恥辱」と憤慨しながらも、任官自体は九条家の家格上昇に繋がるため受諾した。公事の遂行について助言を求める基通に対しても、「故殿(基実)の深恩を思う」としてその手ほどきをしている[注釈 3]。
治承4年(1180年)の以仁王の挙兵を機に全国各地は動乱状態となり、治承5年(1181年)には清盛が死去して後白河院が院政を再開するなど情勢は目まぐるしく変転するが、兼実は特定の勢力に属さず内乱期を通して傍観者的態度を取った。この時期の兼実は右大臣の要職にありながら朝廷にほとんど出仕せず、後白河院からの諮問には明確な返答を避け[注釈 4]、摂政の基通に対しても煩わしさからか公事・作法を教示することはなくなっている。兼実は内心の不満や批判は日記の中だけに止め、それを公言したり、後白河院や平氏に正面切って対峙するようなことは決してしなかったが、貴族社会崩壊の危機に直面して苦慮している後白河院にとっては信を置きにくい存在であり、両者の関係は敵対とは行かないまでも徐々に冷却化していった。
翌治承4年(1180年)、兼実は熊野に向かう自らの護持僧・智詮に自ら書写した『般若心経』と『法華経』を託し、現状の混乱した政治を憂い、自らが権力の中枢に立った暁には「政を淳素に反(かえ)す」(『玉葉』治承4年3月20日条)、すなわち政治の刷新を図って昔のような安定した社会を回復させる決意を示した。兼実は家司でもあった清原頼業に『貞観政要』の加点を求めるなど、中国の政治書の学習に没頭する。ところが、その最中の同年の暮には平重衡による南都焼討によって東大寺・興福寺が炎上し、兼実は悲嘆することになる(『玉葉』治承4年12月28日条)。興福寺が藤原氏の氏寺であったという側面もあるものの、同年5月27日の朝議において「謀叛の証拠がない」ことを理由に興福寺への攻撃に反対(『愚管抄』巻第5)し、その後の再建に対する後白河法皇からの諮問でも再建の重要性を訴える一方で、戦乱や飢饉が解決しない中での造営は民を苦しめるだけである(『玉葉』治承5年7月13・15日条)とも説き、神仏への祈祷と徳化(=徳政)の両立と調和を訴えた。この祈祷と徳政の両立と調和によって「政を淳素に反す」という兼実の信念は以後一貫されることになる[5]。
政治の中枢から一定の距離を置く兼実が頼みとしたのは、異母姉の皇嘉門院だった。皇嘉門院は兼実の幼少の頃から親密な関係にあり邸宅も接していた。養和元年(1181年)12月に皇嘉門院が崩御すると、兼実は日記に繰り返し哀惜の情を綴っている。皇嘉門院の所領の大部分は兼実の嫡子・良通に譲られており、九条家の主要な経済基盤となった。唯一と言ってよい拠り所を失った兼実は、莫大な財力を持つ八条院への接近を図り、八条院無双の寵臣である三位局(高階盛章の女)を室として良輔を産ませ、実子のいない八条院への養子の送り込みに成功している。ただし、三位局は謀反人である以仁王の室であった女性で兼実にとっては政治的交渉相手の1人に過ぎず[注釈 5]、兼実にとって彼女が自分の子を身ごもったのは全くの想定外の出来事であったために生まれた子の扱いに困っていたところ、以仁王を失っていた八条院の意向で彼女に引き取られたとする見方もある[6]。
内覧宣下[編集]
文治元年(1185年)10月、後白河法皇は源義経の要請により源頼朝追討の院宣を下すが、翌月の義経没落で苦しい状況に追い込まれた。頼朝は院の独裁を掣肘するために院近臣の解官、議奏公卿による朝政の運営、兼実への内覧宣下を柱とする廟堂改革要求を突きつける。頼朝が兼実を推薦した背景には兼実が故実に通じた教養人だったこともあるが、平氏と親密だった近衛家、木曾義仲と結んだ松殿家による政権を好まなかったという事情もあった。もっとも内覧推薦は兼実にとって全くの寝耳に水だったようで、「夢の如し、幻の如し」(『玉葉』12月27日条)と驚愕し、関東と密通しているという嫌疑をかけられるのではないかと怯えている。頼朝の要求に対して後白河院が近衛基通擁護の姿勢を取ったため、一時は摂政・内覧が並立するなど紆余曲折があったが、文治2年(1186年)3月12日、兼実はようやく摂政・氏長者を宣下された
執政の座に就いた兼実は、それまでの病悩が嘘のように政務に邁進する。文治3年(1187年)には、保元以来廃絶していた記録所を閑院内裏内に設置した(『玉葉』2月28日条)。続いて後白河院の名で諸臣に対する意見封事を求める御教書が出されるが、これは兼実の提言によるもので、最終的に文面を推敲したのも兼実だった(『玉葉』文治3年3月4日条)。兼実の信条は保守的で故実先例に基づき公事を過失なく遂行することを重視したが、その反面「政を淳素に反す」という理念の実現のために必要な改革や徳政の推進については積極的であった。建久2年(1191年)に出された建久新制には兼実の現実的な側面と政治理念が反映されているという見方もある[5]。こうした姿勢によって貴族社会に一定の秩序と安定をもたらした[注釈 6]。文治4年(1188年)正月27日、兼実は一門・公卿・殿上人を引き連れて春日社に参詣し、氏神に感謝の祈りを捧げている。
ところが、それから一月も立たない2月20日未明、嫡子で内大臣の良通が22歳で死去した。良通は前夜に兼実と雑談しており正に急逝だった。将来を嘱望していた嫡子の死に兼実は打ちのめされるが、喪が明けると悲しみを振り払うかのように自らの女子の入内実現に向けて活動を開始する。文治5年(1189年)11月15日、女子は従三位に叙され「任子」の名が定められた。文治6年(1190年)正月3日、後鳥羽天皇の元服において兼実は加冠役を務め、任子は11日に入内、16日に女御となり、4月26日には中宮に冊立された。
一方で、この頃から兼実にとって気にかかる事態も生じていた。文治5年(1189年)10月16日、後白河院が権中納言・土御門通親の久我亭に入り種々の進物を献上された。兼実は日記に「人以って可となさず、弾指すべし弾指すべし」と記して通親の動きに警戒感を募らせるが、通親はさらに後白河院の末の皇女(覲子内親王)が内親王宣下を受けると勅別当となり、生母である丹後局との結びつきを強めた。12月14日、兼実の太政大臣就任を祝う大饗では通親と吉田経房が座がないことを理由に退出するなど、しだいに兼実に反発する勢力が形成されていった。
頼朝上洛[編集]
文治5年(1189年)に奥州藤原氏を討滅して後顧の憂いがなくなった頼朝は、建久元年(1190年)11月7日に上洛した。9日、兼実は閑院内裏の鬼間において頼朝と初めて対面する[注釈 7]。頼朝が兼実に語った内容は以下の通りである。
— 『玉葉』建久元年11月9日条
- 読み下し文
- …八幡の御託宣に依り、一向君に帰し奉る事、百王を守るべしと云々。これ帝王を指すなり。仍て当今の御事、無双に之を仰ぎ奉るべし。然れば当時、法皇天下の政を執り給う。仍て先ず法皇に帰し奉るなり。天子は春宮の如くなり。法皇御万歳の後、又主上に帰し奉るべし。当時も全く疎略するにあらずと云々。又下官辺の事、外相疎遠の由を表すと雖も、その実全く疎間無く、深く存ずる旨あり。射山の聞こえを恐れるにより、故に疎略の趣きを示すなりと云々。又天下遂に直し立つべし。当今幼年、御尊下又余算猶遙かなり。頼朝又運有れば、政何ぞ淳素に反らざらんや。当時は偏に法皇に任せ奉るの間、万事叶うべからずと云々。…
- 意訳
- …私は八幡の御託宣により、一向に君に帰し奉り百王を守るつもりです。従って当今の御事は、並びなくこれを仰ぎ奉るべきです。しかし今は法皇が天下の政を執り、天子は春宮のような状態ですから、まずは法皇に帰し奉り、法皇崩御の後は主上に帰し奉るべきです。もちろん今も全く主上を疎んずる訳ではありません。また、あなたについてですが、外相は疎遠なように見せかけていても、内実は全く疎間の心はありません。深く考えることがあって、院中の風評を恐れるため、あえて疎略なように見せかけています。天下はいずれ立て直すことができるでしょう。当今は幼年ですし、あなたも余算はなお遙かです。私も運があれば、政は必ず淳素に帰るに違いありません。今のところは法皇に任せ奉る他ありませんので、万事思うようには行きません。…
上洛中に兼実と頼朝が何度会ったかは定かでないが、『玉葉』による限り両者の対面はこの一度きりであった。そして皮肉にも翌年から反兼実派の動きはむしろ活発となり、兼実は窮地に追い込まれることになる。
建久2年(1191年)4月1日、頼朝の腹心・中原広元が土御門通親の推挙により、慣例を破って明法博士・左衛門大尉に任じられた[注釈 8]。4月5日には頼朝の女子(大姫)が10月に入内するのではないかという風聞が、兼実の耳に入っている。6月26日、覲子内親王が院号宣下を受けて宣陽門院となった。通親は宣陽門院の執事別当となり、院司には子息や自派の廷臣を登用して大きな政治的足場を築くことになる。兼実は元来、宣陽門院の生母・丹後局に良い感情を持っていなかったが、院号定には所労不快ながら、追従の心切なるによって参入している。7月17日、兼実の家司が法皇を呪詛しているという内容の落書が、丹後局から兼実に示された。11月5日、一条高能(一条能保の子、母は坊門姫)と山科教成(丹後局の子)の近衛中将、少将への補任について後白河法皇から諮問されるが、兼実の返答は法皇の逆鱗に触れた。これを聞いた兼実は「無権の執政、孤随の摂籙、薄氷破れんとす、虎の尾を踏むべし、半死半死」と自嘲している。「愚身仙洞に於いては疎遠無双、殆ど謀反の首に処せらる」(『玉葉』建久3年正月3日条)とまで追い詰められていた兼実だったが、建久3年(1192年)3月13日、後白河院が崩御したことで長年の重圧から解放された。
失脚[編集]
法皇崩御により兼実は一転して廟堂に君臨し、誰を憚ることもなく朝政を主導することになった。頼朝に征夷大将軍を宣下し、南都(奈良)復興事業を実施するなど、兼実の政治生活では一番実り多い時期が到来するが、それも長くは続かなかった。後白河院崩御後に新たな治天の君となった後鳥羽天皇や上級貴族は厳格な兼実の姿勢に不満を抱き、一方で院近臣への抑圧は宣陽門院を中心に反兼実派の結集をもたらし、門閥重視で故実先例に厳格な姿勢は中・下級貴族の反発を招いた。そして頼朝も大姫入内のために丹後局に接近し、兼実への支援を打ち切った。こうして朝廷内で浮き上がった存在となった兼実であったが、なおも自らの政治路線を譲ることはなく、故実先例に拘るよりも治天の君としての立場の強化を図ろうとする後鳥羽天皇との対立は深刻化していく。だが、中宮・任子が皇子を産まなかったことで廷臣の大半から見切りをつけられ、建久7年(1196年)11月、関白の地位を追われることになった。
浄土宗に帰依[編集]
失脚した兼実は二度と政界に復帰することはなく、建仁元年(1201年)12月10日には長年連れ添った室(藤原季行の女)に先立たれ、建仁2年(1202年)正月27日、浄土宗の法然を戒師として出家、円証と号した。兼実は将来を嘱望されていた長男・良通が早世した心痛から専修念仏の教えに救いを求め、法然に深く帰依するようになった。法然の著作『選択本願念仏集』(『選択集』)は兼実の求めに応じて、法然が著したものである。
しかし、『親鸞聖人御因縁』・『親鸞聖人正明伝』・『親鸞聖人正統伝』などによると、兼実は法然が唱える悪人正機の教えに少々信がおけなかった。そこで、自分達のような俗人や、戒を破った僧までもが本当に念仏を唱えることで極楽浄土に往生できるのか確かめようとした。法然の弟子の僧と自らの娘を結婚させてその僧を破戒僧にしてみようと考えたのである。本当にそれでもその僧は浄土に往生できるのかを確認しようとしたのである。そのような破戒僧でも往生できるのならば自分のような俗人でも往生できるであろうと。その話を法然に持ちかけたところ、法然は、かつては兼実の弟である天台宗の慈円の弟子でもあった綽空(のちの親鸞)を指名し、あまり乗り気ではなかった綽空を説得して兼実の娘の玉日と結婚させ、兼実を安堵させた。
晩年[編集]
次男・良経は土御門通親死後の建仁2年(1202年)12月に摂政となるが、元久3年(1206年)3月に38歳で急死したため、兼実は孫の道家を育てることに持てる全てを傾けた。建永2年(1207年)2月に起こった専修念仏の弾圧(承元の法難)では、法然の配流を止めることはできなかったが、配流地を自領の讃岐に変更して庇護した。
その直後の4月5日、兼実は59歳で死去した。京都法性寺に葬られ、墓は東福寺にある。
小田急線よみうりランド駅前と小田急線百合ヶ丘駅の間にある、(殆ど、よみうりランド駅前依り)付近に以前は木陰でかくれていましたが、伐採により、墓石が露となった、法性寺(法華経)(よみうりランド駅前)があります。よみうりランド駅前は、二枚橋ストアが以前ありましてね。その二枚橋は現在はコンクリートで固められていますけれど。義経と弁慶が渡った、由緒ある橋らしい・・・
そのストアに、毎朝、炊き立ての赤飯を販売なされていましたけれど。セブンイレブン(よみうりランド駅前支店)の新宿駅方向から視て、左手にセブンイレブンがあり、セブンイレブンから視て、右手に二枚橋ストアがあります!(最近、全く、買い物を二枚橋でしていませんけれど。喜美江伯母(亡父の妹:昭和十三年十二月九日生誕)が昔は、二枚橋ストアでお買い物をなされ、お強(こわ)とかお赤飯を購入して、我が家に持ち込んで下さった。伯母は旧満州生まれで、中国残留孤児が怪しかったらしい。幼少期の綽名は、骨皮筋ェ門だったらしい・・・。極度の栄養失調症であったとのこと。父方の伯父、正人(故人)は、東電職員で、本土で生誕。亡父と伯母は旧満州で生誕。本籍を取り寄せた(亡父の死去で)時、白日の下となったが、以前から亡父は自らが旧満州生まれであることは私には語っていたが・・・。純士お爺ちゃまが満州鉄道関連の満州電機❓で敗戦まで勤めていらしたらしいが、敗戦とともに、失職。正人、和己、喜美江は、武家(水落家)の末裔であるという自負心は強かった・・・。
兼実は若い頃から和歌に関心が深く、自ら和歌を能したほか、藤原俊成・定家らの庇護者でもあった。40年間書き綴った日記『玉葉』は、当時の状況を知る第一級の史料として有名。他の著作に『魚秘抄』『摂政神斎法』『春除目略抄』がある。
官歴[編集]
※ 日付=旧暦
- 保元3年(1158年)
- 保元4年(1159年)
- 永暦元年(1160年)
- 永暦2年(1161年)
- 応保2年(1162年)
- 長寛2年(1164年)
- 永万2年(1166年)
- 仁安3年(1168年)2月19日:高倉天皇踐祚により東宮傅を止む。
- 承安4年(1174年)1月7日:従一位に昇叙し、右大臣如元。
- 元暦2年(1185年)12月28日:内覧宣下。右大臣如元。
- 文治2年(1186年)
- 文治5年(1189年)12月14日:太政大臣宣下により兼帯。
- 文治6年(1190年)4月19日:太政大臣上表
- 建久2年(1191年)12月17日:関白宣下。准摂政宣下。
- 建久7年(1196年)11月25日:関白停任。無上表事。
- 建仁2年(1202年)1月28日:出家。法名「圓證」
- 承元元年(1207年)4月5日:薨去。享年59
真跡[編集]
- 中山切
- 処分状案
- 経切
など。
系譜[編集]
- 父:藤原忠通
- 母:家女房加賀 - 藤原仲光の娘
- 妻:藤原兼子 - 藤原季行の娘
- 妻:藤原顕輔の娘(または藤原頼輔の娘)
- 妻:八条院三位局 - 高階盛章の娘
- 生母不明の子女
- 男子:良海
- 男子:良恵
- 女子:玉日 - 親鸞室とされるが諸説あり
親鸞
親鸞 | |
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承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日 |
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幼名 | 松若磨・松若丸・十八公麿 |
名 | 俗名(配流時)- 藤井善信[注釈 3] |
法名 | 〔叡山修行時〕範宴 〔吉水入門後〕綽空 ⇒ 善信/親鸞[注釈 4] 〔越後配流後〕(愚禿)釋親鸞 |
号 | 〔房号〕善信房[注釈 5] |
諡号 | 見真大師(1876年追贈) |
尊称 | 親鸞聖人・宗祖聖人・開山聖人 |
生地 | 京都・法界寺付近 |
没地 | 京都・善法院(押小路南 万里小路東) |
宗旨 | 非僧非俗 (浄土真宗) |
師 | 法然 |
弟子 |
(厳密には、親鸞に師事した人物) 鳥喰の唯円、他 |
著作 | 『教行信証』、『三帖和讃』、他 |
廟 | 大谷本廟(本願寺派) 大谷祖廟(大谷派) 御廟拝堂(高田派) 佛光寺本廟(佛光寺派) 他 |
親鸞(しんらん、承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日 [注釈 6])は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の仏教家。親鸞聖人と称され、浄土真宗の宗祖とされる[注釈 7]。
法然を師と仰いでからの生涯に亘り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え[1]」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとる。親鸞の念仏集団の隆盛が[要出典]、既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中で[要出典]、宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。浄土真宗の立教開宗の年は、『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』)の草稿本が完成した1224年(元仁元年4月15日)とされるが、定められたのは親鸞の没後である。
生涯[編集]
親鸞は、自伝的な記述をした著書が少ない、もしくは現存しないため、その生涯については不明確な事柄が多い。本節の記述は、内容の一部が史実と合致しない記述がある書物(『日野一流系図』、『親鸞聖人御因縁』など)や、親鸞の曽孫であり、本願寺教団の実質的な創設者でもある覚如が記した書物(『御伝鈔』など)によっている。それらの書物は、各地に残る伝承などを整理しつつ成立し、伝説的な記述が多いことにも留意されたい。
年齢は、数え年。日付は文献との整合を保つため、いずれも旧暦(宣明暦)表示を用いる(生歿年月日を除く)。
時代背景[編集]
貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化が起こる。
誕生[編集]
承安3年(1173年)4月1日[注釈 8][注釈 9](グレゴリオ暦換算 1173年5月21日[注釈 10])に、現在の法界寺、日野誕生院付近(京都市伏見区日野)にて、皇太后宮大進[注釈 11] 日野有範の長男として誕生する[2][3]。母については同時代の一次資料がなく[4]、江戸時代中期に著された『親鸞聖人正明伝』では清和源氏の八幡太郎義家の孫娘の「貴光女」としている[5]。「吉光女」(きっこうにょ)とも[6][7]。幼名は、「松若磨[8]」、「松若丸[9]」、「十八公麿[10]」。
幼少期、平家全盛の時で、母(貴光女)は、源氏の各家の男子はことごとく暗殺されることを危惧していた。牛若丸が鞍馬寺に預けられたように、松若丸も同様に寺に預けられる運命だった。清和源氏は源経基以降、五摂家(藤原氏)に仕えたが元を正せば天皇家の血筋でもあった。
戦乱・飢饉により、洛中が荒廃する。
出家[編集]
治承5年(1181年)9歳、叔父である日野範綱に伴われて京都青蓮院に入り、後の天台座主・慈円(慈鎮和尚)のもと得度して「範宴」(はんねん)と称する。
伝説によれば、慈円が得度を翌日に延期しようとしたところ、わずか9歳の範宴が、
「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」
と詠んだという。無常観を非常に文学的に表現した歌である。
叡山修学[編集]
出家後は叡山(比叡山延暦寺)に登り、慈円が検校(けんぎょう)を勤める横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂において、天台宗の堂僧として不断念仏の修行をしたとされる。叡山において20年に渡り厳しい修行を積むが[11]、自力修行の限界を感じるようになる。天台宗は「法華経」を重視した宗派だったが、そもそも「八幡太郎」の嫡流は八幡神社思想が「三つ子の魂」で「法華経」はなじまなかったという学説がある。
六角夢告[編集]
建仁元年(1201年)の春頃、親鸞29歳の時に叡山と決別して下山し[注釈 12]、後世の祈念の為に聖徳太子の建立とされる六角堂(京都市中京区)へ百日参籠[注釈 13]を行う。そして95日目(同年4月5日)の暁の夢中に、聖徳太子が示現され(救世菩薩の化身が現れ)、
「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」
という偈句(「女犯偈」)に続けて、
の告を得る。
この夢告に従い、夜明けとともに東山吉水(京都市東山区円山町)にある法然が住していた吉水草庵を訪ねる。(この時、法然は69歳。)そして岡崎の地(左京区岡崎天王町)に草庵[注釈 15]を結び、百日にわたり法然の元へ通い聴聞する[13]。
入門[編集]
法然の専修念仏の教えに触れ入門を決意する。これを機に法然より「綽空」(しゃっくう)[注釈 16] の名を与えられる。親鸞は研鑽を積み、しだいに法然に高く評価されるようになる
『御伝鈔』では、「吉水入室」の後に「六角告命」の順になっている。またその年についても「建仁第三乃暦」・「建仁三年辛酉」・「建仁三年癸亥」と記されている。正しくは「六角告命」の後に「吉水入室」の順で、その年はいずれも建仁元年である。このことは覚如が「建仁辛酉暦」を建仁3年と誤解したことによる誤記と考えられる[15][16]。詳細は「本願寺聖人伝絵#覚如による錯誤」を参照。
『親鸞聖人正明伝』では、「吉水入室」の後に「六角告命」の順になっている。またその年については「建仁辛酉 範宴二十九歳 三月十四日 吉水ニ尋ネ参リタマフ[17]」、「建仁辛酉三月十四日 既ニ空師ノ門下ニ入タマヘドモ(中略)今年四月五日甲申ノ夜五更ニ及ンデ 霊夢ヲ蒙リタマヒキ[18]」と記されている。
『恵信尼消息』では、「山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて、後世をいのらせたまひけるに、(中略)また六角堂に百日籠らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふにも、まゐりてありしに[注釈 17]」と記されている。
元久元年(1204年)11月7日、法然は「七箇条制誡」を記し、190人の門弟の連署も記される。その86番目に「僧綽空」の名を確認でき、その署名日は翌日の8日である[19]。このことから元久元年11月7日の時点では、吉水教団の190人の門弟のうちの1人に過ぎないといえる[20]。
元久2年(1205年)4月14日、入門より5年後には『選択本願念仏集』(『選択集』)の書写と、法然の肖像画の制作を許される(『顕浄土真実教行証文類』「化身土巻」)。法然は『選択集』の書写は、門弟の中でも弁長・隆寛などごく一部の者にしか許さなかった。よって元久2年4月14日頃までには、親鸞は法然から嘱望される人物として認められたといえる[20]。
元久2年(1205年)閏7月29日、『顕浄土真実教行証文類』の「化身土巻」に「又依夢告改綽空字同日以御筆令書名之字畢」(また夢の告に依って綽空の字を改めて同じき日御筆をもって名の字を書かしめたまい畢りぬ)と記述がある。親鸞より夢の告げによる改名を願い出て、完成した法然の肖像画に改名した名を法然自身に記入してもらったことを記している[21]。ただし、改名した名について親鸞自身は言及していない[20]。改名の名はについて石田は「善信であったとされる。」としている。
改名について[編集]
- 「善信」実名説
- 「綽空」から「善信」(ぜんしん)[注釈 18] への改名説。「親鸞」の名告りはそれ以降とする説。
- 覚如の『拾遺古徳伝』と、それを受けた存覚の『六要鈔』を論拠とする。
- 「善信」房号説
- 宗教学者の真木由香子が『親鸞とパウロ』[22]において主張し、真宗学者の本多弘之[注釈 19]らが支持する説[23]。
- 「善信」は法名ではなく房号で、法然によって「(善信房)綽空」から「(善信房)親鸞」とする説[24]。ここでいう房号とは、「官僧」から遁世した「聖(ひじり)」や、沙弥などの僧が用いた通称のこと。親鸞が在世していた当時には実名敬避の慣習があり、日常生活で実名の使用を避けるために呼び習わされた名のこと(参考文献…『親鸞敎學』95号)。
- 「綽空」から「善信」に改めたのではなく、「綽空」から「親鸞」に改めたとする。法名は、自ら名告るものではないため、「親鸞」の法名も法然より与えられたとする。親鸞は、晩年の著作にも「善信」と「親鸞」の両方の名を用いている。また越後において、師・法然より与えられた「善信」の法名を捨て、「親鸞」と自ら名告るのは不自然である。
- 「善信房」の房号は、唯円の『歎異抄』、覚如の『口伝鈔』・『御伝鈔』に見て取れる。
妻帯[編集]
妻帯の時期などについては、確証となる書籍・消息などが無く、諸説存在する推論である。
- 「玉日」について、歴史学者の松尾剛次[25]、真宗大谷派の佐々木正[26]、浄土宗西山深草派の吉良潤[27]、哲学者の梅原猛[28]は、『親鸞聖人御因縁』[注釈 20]・伝存覚『親鸞聖人正明伝』[30][注釈 21]・五天良空『親鸞聖人正統伝』[32][注釈 22]の記述を根拠に「玉日実在説」を主張している。
- 対して、日本史学者の平雅行は、『親鸞聖人御因縁』・『親鸞聖人正明伝』・『親鸞聖人正統伝』が時の天皇を誤認していることや、当時の朝廷の慣習、中世の延暦寺の実態などの知識を欠いた人物の著作だとし、玉日との結婚は伝承であると再考証している[33]。
- これには、松尾は親鸞についての史料が少ない中で、疑わしい点のある史料であっても批判的検討を行って積極的に用いるべきであるとし、平の方法論は近年の歴史学的成果に逆行するものであると述べている[34]。また、玉日の墓と伝えられる墓所があり、江戸時代後期に改葬がなされていることなど、考古学的知見も玉日実在説の史料になると主張する[35]。
- 京都在所時に玉日と結婚後に越後に配流され、なんらかの理由で越後で恵信尼と再婚したとする説。
- 玉日と恵信尼は同一人物で再婚ではないとする説。
- 法然の元で学ぶ間に、善鸞の実母[注釈 23]と結婚し、流罪を契機に離別。配流先の越後で越後の在庁官人の娘である恵信尼と再婚したとする説。この説を提唱した平雅行は、恵信尼の一族が京都での生活基盤を失った理由や越後にもち得た理由の説明がつかないため、在京の豪族三善為教の娘ではありえないとしている。また天文10年(1541年)に成立した『日野一流系図』の記載は疑問点が多く史料として価値が低いとしている[36]。
当時は、高貴な罪人が配流される際は、身の回りの世話のために妻帯させるのが一般的であり、近年では配流前に京都で妻帯したとする説が有力視されている。
親鸞は、妻との間に4男3女(範意〈印信〉・小黒女房・善鸞・明信〈栗沢信蓮房〉・有房〈益方大夫入道〉・高野禅尼・覚信尼)の7子[37]をもうける。ただし、7子すべてが恵信尼の子ではないとする説[注釈 24]、善鸞を長男とする説もある。善鸞の母については、恵信尼を実母とする説と継母とする説がある。(詳細は「善鸞#恵信尼との関係」を参照。)
師弟配流[編集]
事件の経緯は承元の法難を参照。
建永2年[注釈 25](1207年)2月、後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏の停止(ちょうじ)と西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処せられる。
この時、法然・親鸞らは僧籍を剥奪される。法然は「藤井元彦」、親鸞は「藤井善信」(ふじいよしざね)の俗名を与えられる。法然は土佐国番田へ[注釈 26][注釈 27]、親鸞は越後国国府(現、新潟県上越市)に配流が決まる。
親鸞は「善信」の名を俗名に使われた事もあり、「愚禿釋親鸞」(ぐとくしゃくしんらん)[注釈 28] と名告り、非僧非俗(ひそうひぞく)の生活を開始する。(「善信」から「親鸞」への改名については、「改名について」も参照。)
承元5年(1211年)3月3日、(栗澤信蓮房)明信が誕生する。
建暦元年(1211年)11月17日、流罪より5年後、岡崎中納言範光を通じて[注釈 29]勅免[注釈 30]の宣旨が順徳天皇より下る。
同月、法然に入洛の許可が下りる。
親鸞は、師との再会を願うものの、時期的に[注釈 31]豪雪地帯の越後から京都へ戻ることが出来なかった。
赦免後の親鸞の動向については二説ある。
1つは、親鸞は京都に帰らず越後にとどまったとする説。その理由として、師との再会がもはや叶わないと知ったことや、子供が幼かったことが挙げられる。
対して、一旦帰洛した後に関東に赴いたとする説。これは、真宗佛光寺派・真宗興正派の中興である了源が著した『算頭録』に「親鸞聖人ハ配所ニ五年ノ居緒ヲヘタマヘテノチ 帰洛マシ〜テ 破邪顕正ノシルシニ一宇ヲ建立シテ 興正寺トナツケタマヘリ」と記されていることに基づく。しかしこのことについて真宗興正派は、伝承と位置付けていて、史実として直截に証明する証拠は何もないとしている [38][39][40][41]。
東国布教[編集]
建保2年(1214年)(流罪を赦免より3年後)、東国(関東)での布教活動のため、家族や性信などの門弟と共に越後を出発し、信濃国の善光寺から上野国佐貫庄を経て、常陸国に向かう。
寺伝などの文献によると滞在した時期・期間に諸説あるが、建保2年に「小島の草庵」(茨城県下妻市小島)を結び、建保4年(1216年)に「大山の草庵[注釈 32]」(茨城県城里町)を結んだと伝えられる[要出典]。
そして笠間郡稲田郷[注釈 33]の領主である稲田頼重に招かれ、同所の吹雪谷という地に「稲田の草庵[注釈 34]」を結び、この地を拠点に精力的な布教活動を行う。また、親鸞の主著『教行信証』は、「稲田の草庵」において4年の歳月をかけ、元仁元年(1224年)に草稿本を撰述したと伝えられる[要出典]。
親鸞は、東国における布教活動を、これらの草庵を拠点に約20年間行う。
西念寺 (笠間市)(稲田御坊)の寺伝では、妻の恵信尼は、京には同行せずに「稲田の草庵」に残ったとし、文永9年(1272年)にこの地で没したとしている。
この関東布教時代の高弟は、後に「関東二十四輩」と呼ばれるようになる。その24人の高弟たちが、常陸や下野などで開山する。それらの寺院は、現在43ヶ寺あり「二十四輩寺院」と呼ばれ存続している。また、東国布教中に蓮位坊(下間氏の祖)も親鸞の弟子となり、その後もそば近くに仕えた。
帰京[編集]
62、3歳の頃に帰京する。帰京後は、著作活動に励むようになる。親鸞が帰京した後の東国(関東)では、様々な異義異端が取り沙汰される様になる。
- 帰京の理由
- 確証となる書籍・消息などが無く、諸説あり推論である。また複数の理由によることも考えられる。
- 弾圧から逃れるためだけに、東国門徒を置き去りにして京都に向うとは考えにくく、また京都においても専修念仏に対する、弾圧はつづいているため帰京の理由としては不適当という反論がある。
- 主著『教行信証』と、「経典」・「論釈」との校合のため。
- 鹿島神宮には経蔵があり、そこで参照・校合作業が可能という反論がある。ただし、親鸞が鹿島神宮を参詣したという記録は、江戸時代以前の書物には存在しない。また、鹿島神宮の経論釈は所蔵以来著しく年月が経っており、最新のものと参照校合するためには、当時一番早く新しい経論釈が入手できる京都に戻らなければなかったとする主張もある。次の説とも関係を持つ説である。
- 望郷の念によるもの。
- 35歳まで京都にいたが、京都の街中で生活した時間は得度するまでと、吉水入室の間と短く、また晩年の精力的な著作活動を考えると、望郷の念によるとは考えにくいという反論がある。
- 著作活動に専念するため。
- 当時62、3歳という年齢は、かなりの高齢であり、著作活動に専念するためだけに帰京したとは、リスクが大きいため考えにくいという反論がある。
- 妻・恵信尼の動向
- 確証となる書籍・消息などが無く、諸説あり推論である。
- 当時の女性は自立していて、夫の行動に必ずしも同行しなければならないという思想は無い。
- 京都に同行、もしくは親鸞が京都での生活拠点を定めた後に上京したとする説。その後約20年間にわたり恵信尼は、親鸞とともに京都で生活したとされ、建長6年(1254年)に、親鸞の身の回りの世話を末娘の覚信尼に任せ、故郷の越後に帰ったとする。
寛元5年(1247年)75歳の頃には、補足・改訂を続けてきた『教行信証』を完成したとされ、尊蓮に書写を許す。
宝治2年(1248年)、『浄土和讃』と『高僧和讃』を撰述する。
建長2年(1250年)、『唯信鈔文意』(盛岡本誓寺蔵本)を撰述する。
建長3年(1251年)、常陸の「有念無念の諍」を書状を送って制止する。
建長4年(1252年)、『浄土文類聚鈔』を撰述する。
建長5年(1253年)頃、善鸞(親鸞の息子)とその息子如信(親鸞の孫)を正統な宗義布教の為に東国へ派遣した。しかし善鸞は、邪義である「専修賢善」(せんじゅけんぜん)に傾いたともいわれ、正しい念仏者にも異義異端を説き、混乱させた。また如信は、陸奥国の大網(現、福島県石川郡古殿町)にて布教を続け、「大網門徒」と呼ばれる大規模な門徒集団を築く。
建長7年(1255年)、『尊号真像銘文』(略本・福井県・法雲寺本)、『浄土三経往生文類』(略本・建長本)、『愚禿鈔』(二巻鈔)、『皇太子聖徳奉讃』(七十五首)[注釈 38]を撰述する。
建長8年(1256年)、『入出二門偈頌文』(福井県・法雲寺本)を撰述する。
同年5月29日付の手紙で、東国(関東)にて異義異端を説いた善鸞を義絶する。その手紙は「善鸞義絶状」、もしくは「慈信房義絶状」と呼ばれる。
康元元年(1256年)、『如来二種回向文』(往相回向還相回向文類)を撰述する。
康元2年(1257年)、『一念多念文意』、『大日本国粟散王 聖徳太子奉讃』を撰述し、『浄土三経往生文類』(広本・康元本)を転写する。
正嘉2年(1258年)、『尊号真像銘文』(広本)、『正像末和讃』を撰述する。
この頃の書簡は、後に『末燈抄』(編纂:従覚)、『親鸞聖人御消息集』(編纂:善性)などに編纂される。
入滅[編集]
弘長2年(1262年[注釈 40])11月28日 (グレゴリオ暦換算 1263年1月16日[注釈 10])、押小路南 万里小路東[注釈 41]にある実弟の尋有が院主である「善法院[注釈 42] 」にて、行年90(満89歳)をもって入滅する。臨終は、親鸞の弟の尋有や末娘の覚信尼らが看取った。遺骨は、鳥部野北辺の「大谷」に納められた。流罪より生涯に渡り、非僧非俗の立場を貫いた。
荼毘の地は、親鸞の曾孫で本願寺第三世の覚如の『御伝鈔』に「鳥部野(とりべの)の南の辺、延仁寺[注釈 43]に葬したてまつる」と記されている。
- 頂骨と遺品の多くは弟子の善性らによって東国に運ばれ、東国布教の聖地である「稲田の草庵」に納められたとも伝えられる。
入滅後[編集]
報恩講[編集]
親鸞の祥月命日には、宗祖に対する報恩感謝のため「報恩講」と呼ばれる法要が営まれている。
浄土真宗各派本山の成立[編集]
- 本願寺の成立については、覚如、蓮如(中興)、および本願寺の歴史を参照。
- 専修寺の成立については、真仏、真慧(中興)、および専修寺を参照。
- 佛光寺の成立については、了源(中興)、および佛光寺#歴史を参照。
- 興正寺の成立については、了源(中興)、経豪/蓮教、および興正寺#歴史を参照。
- 錦織寺の成立については、錦織寺を参照。
- 毫摂寺の成立については、毫摂寺を参照。
- 誠照寺の成立については、誠照寺を参照。
- 専照寺の成立については、専照寺を参照。
- 證誠寺の成立については、證誠寺を参照。
大師号追贈[編集]
明治9年(1876年)11月28日、明治天皇より「見真大師[注釈 44]」(見眞大師)の諡号を追贈された。西本願寺・東本願寺・専修寺の御影堂の親鸞の木像の前にある額の「見真」(見眞)はこの諡号に基づく。
浄土真宗本願寺派は、「本願寺派宗制[1]」を2007年11月28日改正・全文変更(2008年4月1日施行)し、宗門成立の歴史とは直接関係ないなどの理由により親鸞聖人の前に冠されていた「見真大師」の大師号を削除した[42]。同年4月15日には、「浄土真宗の教章[注釈 45]」も改正し、大師号が削除され新「浄土真宗の教章[2]」を制定した。真宗大谷派は、1981年に「宗憲」を改正し「見真大師」の語を削除した。また御影堂に対して用いられていた「大師堂」の別称を本来の「御影堂」に復した。
現代における受容・評価[編集]
高校で使われる倫理の教科書ではかつて、親鸞が法然の教えを「徹底」または「発展」させたという記述が多かったが、優劣をつけない表現へ修正されつつある[43]。
親鸞非実在論[編集]
明治29年(1896年)村田勤は『史的批評・親鸞真伝』「第十二章 系圖上の大疑問」[44]において、在世当時の朝廷や公家の記録にその名が記されていなかったこと、親鸞が自らについての記録を残さなかったことなどから、親鸞の存在を疑問視し、架空の人物とする説を提唱した。続いて東京帝国大学教授の田中義成と國學院大学教授の八代国治が「親鸞抹殺論」の談話を発表した[45]。
しかし、大正10年(1921年)に鷲尾教導の調査によって西本願寺の宝物庫から、越後に住む親鸞の妻である恵信尼から京都で親鸞の身の回りの世話をした末娘の覚信尼に宛てた書状(「恵信尼消息」)10通が発見される[46]。その内容と親鸞の動向が合致したため、親鸞が実在したことが証明されている。
系図[編集]
略系図出典
- 洞院公定撰『尊卑分脈』
- 佐々木月樵 編『親鸞伝叢書』「本願寺系図」
- 『真宗の教えと宗門の歩み』真宗大谷派宗務所出版部、第4版
- 今井雅晴『如信上人』 真宗大谷派東京教務所、改訂版
- 平雅行『歴史のなかに見る親鸞』
- 同朋大学仏教文化研究所 編『誰も書かなかった親鸞-伝絵の真実』
依拠聖典[編集]
根本経典[編集]
- 根本経典
- 親鸞は、「浄土三部経」と総称される『佛説無量寿経』、『佛説観無量寿経』、『佛説阿弥陀経』を、拠り所の経典とする。
- 特に『佛説無量寿経』を『大無量寿経』(『大経』)と呼び、教えの中心となる経典として最重要視する。
七高僧論釈章疏[編集]
- 龍樹 - インド(インドの仏教)
- 『十住毘婆沙論』「易行品」
- 「十二礼」
- 天親 - インド
- 『無量寿経優婆提舎願生偈』(『無量寿経優婆提舎』、『浄土論』、『往生論』)
- 曇鸞 - 中国(中国の仏教)
- 『無量寿経優婆提舎願生偈註』(『浄土論註』、『往生論註』)
- 『讃阿弥陀佛偈』
- 道綽 - 中国
- 『安楽集』
- 善導 - 中国
- 『観無量寿経疏』(『観経疏』、『観経四帖疏』、『観経義』)[注釈 51]
- 『往生礼讃偈』(『往生礼讃』)
- 『法事讃』[注釈 52]
- 『般舟讃』[注釈 53]
- 『観念法門』[注釈 54]
- 源信 - 日本(日本の仏教)
- 『往生要集』
- 源空(法然) - 日本
- 『選択本願念佛集』(『選択集』)
その他[編集]
教え[編集]
ノート:親鸞/過去ログ2に、このページに関する注意があります。
注意の要約:宗派によって解釈が異なる教義については、その項目の記事ページに出典を明記した上で詳細を記述する。 |
概要[編集]
親鸞が著した浄土真宗の根本聖典である『教行信証』の冒頭に釈尊の出世本懐の経である『大無量寿経』[注釈 56] が「真実の教」であるとし、阿弥陀如来(以降「如来」)の本願(四十八願)と、本願によって与えられる名号「南無阿弥陀佛」(なむあみだぶつ、なもあみだぶつ〈本願寺派〉)を浄土門の真実の教え「浄土真宗」であると示した[50]。
親鸞は名号を「疑いなく(至心)我をたのみ(信楽)我が国に生まれんと思え(欲生)」という阿弥陀仏からの呼びかけ(本願招喚の勅命)と理解し、この呼びかけを聞いて信じ順う心が発った時に往生が定まると説いた。そして往生が定まった後の称名念仏は、「我が名を称えよ」という阿弥陀仏の願い(第十八願)、「阿弥陀仏の名を称えて往生せよ」という諸仏の願い(第十七願)に応じ、願いに報いる「報恩の行」であると説く。そのことを「信心正因 称名報恩」という。念仏を、極楽浄土へ往生するための因(修行・善行)としては捉えない。
如来の本願によって与えられた名号「南無阿弥陀仏」をそのまま信受することによって、臨終をまたずにただちに浄土へ往生することが決定し、その後は報恩感謝の念仏の生活を営むものとする。このことは名号となってはたらく「如来の本願力」(他力)によるものであり、我々凡夫のはからい(自力)によるものではないとし、絶対他力を強調する[50][51]。なお、親鸞の著作において『絶対他力』という用語は一度も用いられていない[52]。
教えに対する解釈は真宗大谷派、 浄土真宗本願寺派、 真宗系の新宗教である浄土真宗親鸞会 などでそれぞれ差異がある。
以上のような親鸞の教えは、法然の専修念仏を基礎としたもので、親鸞自身は新しい教えや宗派の創設を意図していなかった。しかし、自らも含めた人間の欲望や弱さなどにありのまま向き合う中で到達した阿弥陀の本願に関する親鸞の解釈には、阿弥陀からの呼びかけを信じ順う心が発った時点で、念仏さえ要せずに極楽往生が定まる(その後の念仏は自然(じねん)の報恩である)など他力思想の徹底、その表裏として、修行や善行といった自力で
涅槃
ヒンドゥー教用語 ニルヴァーナ |
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英語 | freedom, liberation |
サンスクリット語 | निर्वाण (IAST: nirvāṇa) |
ベンガル語 | নির্বাণ (nirbanô) |
グジャラート語 | નિર્વાણ (nirvāṇa) |
ヒンディー語 | निर्वाण (nirvāṇa) |
ジャワ語 | ꦤꦶꦂꦮꦤ (nirwana) |
カンナダ語 | ನಿರ್ವಾಣ (nirvāṇa) |
マラヤーラム語 | നിർവാണം (nirvanam) |
ネパール語 | निर्वाण (nirvāṇa) |
オリヤー語 | ନିର୍ବାଣ (nirbaana) |
パンジャブ語 | ਨਿਰਬਾਣ (nirbāṇa) |
タミル語 | வீடுபேறு (Veeduperu) |
テルグ語 | నిర్వాణం (nirvaanam) |
涅槃(ねはん)、ニルヴァーナ(サンスクリット語: निर्वाण、nirvāṇa)、ニッバーナ(パーリ語: निब्बान、nibbāna)とは、一般にヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教における概念であり、繰り返す再生の輪廻から解放された状態のこと[1][2][3]。
インド発祥の宗教においては、涅槃は解脱(モークシャ मोक्ष mokṣa または ムクティ मुक्ति mukti)の別名である[4][5]。すべてのインドの宗教は、涅槃は完全な静寂、自由、最高の幸福の状態であるだけでなく、誕生、生、死の繰り返しである輪廻からの解放と終了であると主張している[6][7]。
仏教においては、煩悩を滅尽して悟りの智慧(菩提)を完成した境地のこと[8][9]。涅槃は、生死を超えた悟りの世界であり、仏教の究極的な実践目的とされる[8][注釈 1]。完全な涅槃を般涅槃(はつねはん)、釈迦の入滅を大般涅槃という[8][10][注釈 2]。この世に人として現れた仏の肉体の死を指すこともある[8]。仏教以外の教えにも涅槃を説くものがあるが、仏教の涅槃とは異なる[8]。
原語・漢訳・同義語[編集]
原語のサンスクリット語: nirvāṇa(ニルヴァーナ、巴: nibbāna)とは「消えた」という意味である[11]。「涅槃」はこれらの原語の音写である[8][9][注釈 3]。音写はその他に泥曰(ないわつ)、泥洹(ないおん)、涅槃那、涅隸槃那などがある[8]。
梵: nirvāṇaは、滅、寂滅、滅度、寂、寂静、不生不滅[要出典]などと漢訳される[8]。また、解脱、択滅(ちゃくめつ)、離繋(りけ)などと同義とされる[8]。釈迦の入滅を、大いなる般涅槃、すなわち大般涅槃(だいはつねはん、巴: mahāparinirbāṇa)、あるいは大円寂という[10]。
に至ることができるという自称善人のおごり・はからいを戒め、むしろ、万人が等しく凡夫・悪人として救済されることこそ阿弥陀の本願であるとの世界観・人間観など、独自の特色があり、ここに浄土真宗が独立宗派として成立する思想的基盤があった[53][54]。
また、このような親鸞の思想は、仏陀自身が説いた初期仏教とは様相の異なるもので、他力思想の徹底という意味では、初期仏教の限界を乗り越えようとする営みの連続であった大乗仏教の中でも、殊に特徴的であり、仏教というよりも、人間の原罪とキリストによる救済という構図を有するキリスト教に近いとの指摘が、かねてからされている[55][56]。一方で、親鸞の思想を狭い意味での仏教の中だけで理解しようとすることを戒め、仏教伝来前から現代に至るまで通底する日本の精神的土壌が、仏教を通して顕現したものであるとして、積極的に評価する意見もある[57]。
教義・教学の用語[編集]
著書[編集]
- 漢文
-
- 『顕浄土真実教行証文類』(略名 『教行信証』)
教行信証(読み)きょうぎょうしんしょう
- 関連書籍
子孫[編集]
- 善鸞 - 毫摂寺第二代/證誠寺第二世。親鸞の帰洛後の東国では門徒の法義理解の混乱や対立が発生する。それを正すため善鸞とその実子如信を派遣するも収束できなかった。善鸞は異義異端事件を起し義絶される。続柄については諸説あり、親鸞の長男もしくは二男。
- 覚信尼 - 親鸞の墓所である「大谷廟堂」を建立し、初代留守職となる[61][62]。親鸞の娘。
- 覚如 - 本願寺第三代。本願寺の実質的な開祖[注釈 58]。親鸞の曽孫。
- 存覚 - 常楽寺 (下京区)初代。錦織寺四代。佛光寺七代/興正寺七世の了源の師[63][64][65]。親鸞の玄孫。
- 蓮如 - 本願寺第八代。本願寺中興の祖[61][62]。親鸞からみて直系9親等(「雲孫の子」)にあたる。
- 顕如 - 本願寺第十一代。戦国時代に顕如を法主とする本願寺は織田信長と敵対する。(石山合戦・信長包囲網)[61][62]。親鸞からみて直系13親等にあたる。
- 教如 - 東本願寺第十二代。顕如の長男。顕如の示寂にともない本願寺を継承し本願寺第十二代となるも、豊臣秀吉により退隠を命ぜられる。秀吉の歿後、後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康より京都七条烏丸に寺領が寄進され、本願寺(東本願寺)を分立する[62]。親鸞からみて直系14親等にあたる。
- 准如 - 西本願寺第十二代。顕如の三男。顕如の示寂後に秀吉の命により本願寺第十二代となる[61][注釈 59]。
- 大谷家 - 明治時代に名字必称となると浄土真宗本願寺派や真宗大谷派など本願寺教団の法主(門主・門首)、およびその一族が姓を「大谷」とした。本願寺派第25代大谷光淳は親鸞からみて26親等にあたる。真宗大谷派第二十五代門首の大谷暢顯は親鸞からみて25親等にあたり、2014年4月に門首後継者に選定された大谷暢裕も親鸞からみて25親等にあたる。浄土真宗東本願寺派第二十五代門主の大谷光紹は親鸞からみて直系25親等にあたる。
歴史小説[編集]
親鸞を主人公とした歴史小説は多く出されている。ただし親鸞自身は生涯にわたり自伝的な記述をした著書が少なく不明確な事柄が多い。その限られた行実に沿って作られているため、内容の大部分がフィクションである。
主な作品に、
- 倉田百三『出家とその弟子』(1917年)[66]
- 同『親鸞』(1940年)[67]
- 吉川英治『親鸞記』(1923年)
- 同『親鸞』全3巻(1938年)[68]
- 丹羽文雄『親鸞とその妻』全3巻(1957年 - 1959年)[69][70][71]
- 同『親鸞』全5巻(1969年)[72][73][74][75][76]
- 三國連太郎『白い道:第一部 法然・親鸞とその時代 しかも無間の業に生きる』全3巻(1982年)[77]
- 津本陽『弥陀の橋は:親鸞聖人伝』全2巻(2002年)[78][79]
- 五木寛之『親鸞』全2巻(2010年)[80][81][注釈 60]
- 同『親鸞 激動篇』全2巻(2012年)[82][83]
- 同『親鸞 完結篇』全2巻(2014年)[84][85]
がある。
なお吉川英治の『親鸞』は、1960年に伝記映画として『親鸞』・『続 親鸞』のタイトルで制作され、田坂具隆が監督し、親鸞を中村錦之助が演じた[86]。三國連太郎『白い道』は、1987年に伝記映画として『親鸞 白い道』のタイトルで制作され、原作者の三國連太郎が監督し、親鸞を森山潤久が演じた[87]。