徒然なる儘に ・・・ ⑤

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自衛隊「違憲」 長沼判決から50年 いまも重み、元裁判長が語る 編集委員・永井靖二 2023年9月7日 7時00分

 戦後、ただ1度だけ裁判所が正面から自衛隊を「違憲」とした「長沼一審判決」から、7日で50年を迎える。現在も安保政策に影響を及ぼしているとされる同判決について、裁判長だった福島重雄さん(93)が思いを語った。

 「『唯一』になるつもりは、なかったんですがね」。郷里の富山市内で弁護士を続ける福島さんは、憲法9条と自衛隊の整合性を司法が判断しないままで過ぎたこの半世紀を振り返った。

 1969年7月に提訴された長沼裁判は、北海道長沼町にできるミサイル基地(現・航空自衛隊長沼分屯〈ぶんとん〉基地)の予定地について、「公益上の理由」として、水害を防ぐための保安林指定を国が解除したことの是非が争われた行政訴訟だった。

 「でも原告が本当に問いたかったのは、憲法9条があるのに自分の郷土にミサイル基地が造られていいのか、ということだった」と、福島さんは自衛隊の実体審理に踏み込んだ経緯を語った。

戦艦大和の元乗組員ら、証人は24人に

 自衛隊は、憲法9条2項が禁じた「戦力」なのか。採用した証人は24人に達した。

 旧海軍参謀として真珠湾攻撃の立案に携わり、戦後は自衛隊航空幕僚長を務めた源田実▽関東軍作戦主任参謀などを務めた元陸軍中将の遠藤三郎▽戦艦大和の乗組員だった海上幕僚長の内田一臣▽南京攻略戦にも参加した元大本営参謀で陸上幕僚長の中村龍平――。旧軍元将校や自衛隊幹部らが、相次ぎ出廷した。

 敗戦から四半世紀のこの時期、関係者は全員、戦前派か戦中派。福島さんも海軍兵学校の元生徒で、校舎を空襲で焼かれた体験を持つ。「主張の内容はどうあれ、当時の証人はこの国の安全保障の現実を、いまの人よりもずっとリアルに見ていたと思う」と分析する。

 福島さんは基地反対運動に絡む別件の訴訟で69年5月、傍聴席で労働歌「インターナショナル」を歌った学生全員に退廷を命じ、機動隊を法廷に導入した。だが、若手の勉強会だった「青年法律家協会」(青法協)会員であることを理由に、「左翼」「反体制」などと攻撃された。

裁判所長の書簡問題など、波乱絶えず

 札幌地裁の平賀健太所長(当時)が「農林大臣の裁量を尊重すべきだ」と、訴訟に介入する内容の書簡を福島さんに送って問題化したのを契機に、国側からの前例のない忌避申し立て、右翼系団体による国会への訴追請求など、波乱は絶えなかった。「最高裁が政権に寄り添ってしまい、その意向に反する考えは排除する傾向を当時から強く感じた。それは今も続いているのではないか」と、危惧する。

 行政訴訟では、原告の請求に「訴えの利益」があるか否かが、具体的な判断に入る際の欠かせない要件となる。長沼一審判決は、これを「平和的生存権」を根拠に認めた。その鍵となる論理構成は、結審から半月後の73年4月15日、気分転換のためスキーをしに行ったニセコアンヌプリの山頂へ向かう絶景のなかでひらめいたという。山頂で岩に腰掛け、手帳に着想を書き付けた時の高揚感を今も覚えている。

 憲法76条が「良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」とうたう裁判官の矜恃(きょうじ)に従い、福島さんは自衛隊を「戦力」と断じた。一方、安倍内閣は2014年7月の閣議決定憲法の解釈を変更し、他国への攻撃に自衛隊が反撃する集団的自衛権を容認した。だが、約7千文字もの閣議決定文に「戦力」の語は一度も登場しない。

 「50年間、日本はかろうじて戦争に巻き込まれずにきた」と言う。「けれども、政権が今の調子でアメリカに肩入れを続けたら、向こう50年間、日本は戦争をせずに済ませられるのでしょうか」編集委員・永井靖二)

水島朝穂早稲田大学教授(憲法・法政策論)の話

 軍隊を経験した福島裁判長が、編成や装備、運用の実態まで立ち入って導き出した長沼一審判決は、緻密(ちみつ)な論理で自衛隊を「戦力」と認定した。実直な裁判官が審理を尽くした判決の構成は堅固だ。高度な政治性を持つ事案には憲法判断を控えるべきだとする「統治行為論」に対しても、司法が判断に踏み込むべき要件を示し、この事案が該当することを明示している。24人もの証人尋問を行い、自衛隊の実態審理を周到に行ったのも、憲法判断すべき事案と決断したことの帰結だ。憲法の様々な規範が崩されていくなか、違憲立法審査権を持つ裁判所が、たった一度でも自衛隊を「違憲」と断じた実例が持つ意味は大きい。「解釈」で集団的自衛権行使を容認した当時の安倍晋三首相すら、「自衛戦力」を合憲とは言えなかった自衛隊を完全に軍隊、「戦力」とすることに対する見えざる歯止めとして機能しているのではないか。「たかが一審判決、されど裁判所の判決」である。

長沼判決とは

 札幌地裁判決は自衛隊憲法9条に違反する「戦力」と認定し、保安林指定の解除は公益性がなく、違法と結論づけた。これに対し札幌高裁は、洪水の危険性はダムなどの代替施設で解消され、原告の訴えの利益は消滅しているとして地裁判決を取り消し、訴えを門前払いにした。最高裁自衛隊憲法判断には全く触れずに上告を棄却した。このため、最高裁自衛隊が合憲か否かの判断は一度も示しておらず、自衛隊憲法適合性は「司法的未決着状態」にあるとされる。

平賀書簡問題と「司法の危機」

 長沼裁判で自衛隊の実態審理に入る姿勢を見せた福島重雄裁判長に、札幌地裁の平賀健太所長は1969年8月、「損害は代替工事で十分に防止できる」「裁判所も農林大臣の裁量を尊重すべきだ」などとする書簡を送った。

 「裁判官の独立」を侵害したとして問題が表面化すると、最高裁は平賀所長を注意処分にした。

 だが、鹿児島地裁の飯守重任(いいもり・しげとう)所長は、書簡問題に絡めて青年法律家協会(青法協)を「反体制」と批判する論文を自民党の外部団体の機関紙に公表し、青法協への攻撃が強まった。

 右翼系団体は国会の裁判官訴追委に福島裁判長の訴追を請求し、喚問の末、訴追猶予となる。一方、原告支援者らから訴追請求された平賀所長は不訴追となり、「放火犯より通報者を罰した」と批判の声が上がった。

 政府は青法協の活動を理由に福島裁判長の忌避を申し立てたが、札幌地裁は却下。同じ時期の70年5月、最高裁の石田和外(かずと)長官は、裁判官の「思想基準」を示す発言をした。5カ月後、札幌高裁は平賀所長の書簡を公表したことを問題視し、福島裁判長を注意処分。福島裁判長は抗議の辞表を提出するが、周囲の強い説得で撤回した。

 71年4月、福島裁判長の盟友で青法協会員だった熊本地裁の宮本康昭判事補の再任を、最高裁は拒否した。現役の3分の1に及ぶ約550人の判事と判事補が再任や再任拒否の理由公表を求める署名に名を連ねたが、決定は覆らなかった。

 裁判所が右傾化の様相を一気に強めたこれら一連の出来事は、「司法の危機」と呼ばれた。戦時中、平賀所長は日本占領下のジャワで軍政監部の司政官、飯守所長は旧満州国の司法部参事官を務めていた。石田長官は73年の定年退官後、「日本会議」の前身の一つ「元号法制化実現国民会議」の議長に就任した。

旧海軍参謀で自衛隊航空幕僚長・源田実の証言(要旨)

 日本は、自由主義諸国のなかで極めて重要な戦略的立場にある。その日本のせいで、アメリカを中心とした自由諸国の防衛に亀裂を生むことはあってはならない。極東や西太平洋の安定が乱れれば、日本だけが圏外に立つことはまず不可能だし、軍事的な攻撃があるとすれば、航空基地やミサイル基地などの軍事目標が最初に狙われるだろう。しかも、日米安保航空自衛隊アメリカの作戦内容を知って自らの防衛計画を立てる仕組みにはなっていない。だが、相互の信頼と自国の装備の充実で戦争が阻止できるならば、それがいいと考える。

参謀本部第一(作戦)課長などを歴任した旧陸軍中将・遠藤三郎の証言(要旨)

 参謀本部にいた頃、仮想敵国をアメリカ、ソ連、中国として作戦計画を作ったが、実は兵力は大幅に不足していた。そんな折、軍縮の重要性を認識したのはジュネーブ海軍軍縮会議だった。細長く奥行きのない国土、燃えやすい家屋に密集した住民がいる日本は、軍隊では防衛し得ない国だ。だから旧軍は戦場を外地に求めた。「国防圏」が膨れあがり破れるのは当然だった。戦争の残虐性をいやというほど体験し、世界に先がけて軍備を全廃したのだ。国民だけでなく、総理大臣が一番先にこの憲法を守らなければならない。