徒然なる儘に ・・・ ⑤

心機一転、新たにブログ再開です💕 雑談を書くことも多いですけれど・・・(主に、電子ゲーム・ネタ💕)、残りは【新聞記事】にコメントを入れています💕

福沢諭吉、偉大さの源は 1万円札の肖像40年 評伝小説出版の荒俣宏さんに聞く 2024年2月14日 5時00分

 福沢諭吉(1835~1901)が今年、40年にわたった1万円札の肖像の座を降りる。「学問のすすめ」を書いたり、慶応義塾大学の礎を築いたりしたのは知っていても、どこが偉いのかが伝わりにくい人物だ。大部の評伝小説「福翁夢中伝」(早川書房)を出した荒俣宏さんは「福沢の偉さの源は、権威ではなく品位にある」と話す。

 

 福沢にはピンとくる肩書がない。下級武士の家に生まれ、明治の新政府では公職に就くこともなく在野で過ごした。教育家とも言われるが、履歴書に書けるような学歴や博士号はない。だが、痛快無比な人生は晩年に口述した「福翁自伝」にくわしく記されている。自伝を超える評伝は難しいと感じていた荒俣さんだが、「自伝はおおむね幕末から明治初期にかけての話。彼が一生懸命、国を良くしようとして動いた晩年には至っていない。自伝の続きを含めれば、異質な福沢像が描けるのではないかと思ったんです」。

 物語の前半は、咸臨丸とその秘められた使命を軸に進む。1860年、初めて太平洋を往復した幕府の軍艦には勝海舟らと共に福沢も乗っていた。「日本が二分した幕末期、国の危機をどう避け、どう乗り越えるかを考えたとき、二つの人材が必要だった」

 一つは国のために命を尽くして動く人。もう一つは私人として世間に認められ、やがて周りに人が集まることで結果的に国に寄与する人。勝は国のために立派な海軍を作ろうとし、福沢は独立自尊の志のもと、自分の教育のために懇願して乗り込み、ジョン万次郎から英語を教えてもらったりした。「上からか下からかの違いはあっても、明治維新期の海外に向けて、日本の品位を保つ役割を果たしたんです」

 

 ■金欠でも人助け

 自分への教育はやがて「学問のすすめ」(72年)につながり、後進に近代市民としての独立自尊を訴える。海外で業績を上げながらも帝国大学(現・東京大)と対立した北里柴三郎に手を差し伸べて伝染病研究所の設立に尽力し、日本初の女優として世界に羽ばたいた川上貞奴(さだやっこ)と夫の音二郎を支援する。

 「貞奴独立自尊の女性のシンボルのように思っていたんでしょうね。自伝で金がない、金がないと言いながら、困っている人の世話を焼く。人を助けるのが趣味だと言って、痩せ我慢する。品位って痩せ我慢から生まれるんです」

 昨夏の甲子園で優勝した慶応高野球部もその例という。「制約に従う意味での痩せ我慢は丸刈りだけど、慶応はそれを破棄することによって、悪口を言われても仲間はずれにされてもいい覚悟でやっている。独立自尊的な痩せ我慢です」

 

 ■教育勅語に対抗

 死の前年、福沢は品位ある国づくりを目指し、慶応義塾から「修身要領」を発表する。「人は人たるの品位を進め、智徳(ちとく)を研(みが)き~」との第1条に始まる、国民に向けた道徳書。「学問のすすめ」を更新し、官制の「教育勅語」(90年)に対抗した。

 荒俣さんいわく「要領と勅語は共に博愛主義で9割方同じように見えるが、勅語の〈忠〉〈孝〉という言葉は慎重に排されている」。福沢は、代わりに個人の〈幸福〉を求めるようにうながし、国や親に従順であるよりも独立自尊を訴えた。要領の普及活動費の捻出のため、慶応を廃塾にして土地を売り払う覚悟までしていたという。

 「勅語が広まってしまうと、たいへんなことになると警告していたんだなと、よくわかった。福沢は文明国の尺度を独立自尊から生じる品位に置いていた。品位があれば他国から尊敬されるから、戦争なんて起きないんです」野波健祐