徒然なる儘に ・・・ ⑤

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(戦争トラウマ:上)「心の傷」を知る 元兵士の実態、国が調査へ 2024年3月26日 5時00分

 太平洋戦争で心に傷を負った元兵士の実態について、国が調査に乗り出すことが決まった。戦傷病者の援護の一環として国が開設した「しょうけい館」の運営有識者会議が13日に開かれ、精神疾患に苦しんだ戦傷病者についての資料などを集める方針が了承された。国による調査は初めて。

 戦争体験でトラウマを受け、PTSD心的外傷後ストレス障害)などに苦しんだ元兵士については近年、家族が証言集会を開くなどして実態調査を求めていた。昨年3月には加藤勝信厚生労働相(当時)が国会で答弁し、しょうけい館で調査する方針を示していた。

 有識者会議では厚労省側が「心の傷に苦しんだ戦傷病者についての展示に取り組むため、資料や研究者の研究成果を中心とした調査を想定している」と説明。日本赤十字社参与の堀野政則氏は「事例を掘り起こすのは難しいが、拾い出せるものは残していくことが大切だ」とした。

 会議を受けて、「PTSDの日本兵家族会」の黒井秋夫代表らが15日、厚労省の担当者らと面会した。黒井代表は厚労省側に「実態調査をして全体像を明らかにしてほしい」などと要望した。厚労省の担当者は「(調査は)しょうけい館の機能の範疇(はんちゅう)に限られる」と述べるにとどめた。

 調査主体となるのは同館の3人の学芸員。今回は調査費を新たに計上せず、通常の活動費の範囲で行うという。(後藤遼太)

 

 ■「戦争は生きるも死ぬも地獄」 アナウンサー・桑原征平さん

 戦争による心の傷を抱えた復員兵に、家族はどう向き合ってきたのか。中国で従軍した父をもつアナウンサーの桑原征平さん(79)に聞いた。

     ◇

 忘れもせん。小学5年の時でした。父が愛人を連れ込み、母と私の目の前で母の手料理を2人で食べ、母に布団を敷かせて命じました。「今から征平と風呂屋行け。2時間、帰ってくるな」

 寒空の下、近所の製材所の材木に並んで腰掛けました。「お母ちゃん、何で別れへんの」と私。「お父ちゃんは必ず、戦争前の優しい人に戻らはる。辛抱したげような」と母は答えました。

 父・栄は京都の警察官。中国へ出征し、1年後に傷病兵として帰国しました。復職した時はすでに人が変わり、荒くれ者になっていました。左遷されて警察を辞め、母が家計を支えました。

 父は毎晩、焼酎をあおり、週に1、2回は爆発しました。「何やこのまずい飯は」とみそ汁を母の顔に投げつけ、ちゃぶ台をひっくり返す。子どもを殴る、蹴る。

 父に縛られ、鉄橋から身を乗り出す姿勢にされたことがあります。すぐ下を電車が通る。「殺される」と思いました。76歳で父が亡くなった時、「ようやく死んだ」としか思えませんでした。

 2012年に母が亡くなり、遺品整理中に一冊の本を見つけました。表紙には「陣中日記 桑原栄著」。戦地で書きためた従軍記を母が自費出版していたようです。

 一気に読みました。おやじ、何人殺しとんねん……。苦労したんやな。ショックでした。直前まで話していた戦友が隣で鉄かぶとを撃ち抜かれたり、民家に隠れた中国人を銃剣で刺し殺したり。

 ある時は、敵の陣地を攻撃し、味方もほとんどが戦死。ようやく陣地に飛び込んだら、数人の中国兵が逃げられないよう鎖につながれて死んでいたそうです。「中国も日本も、二等兵は大変や」と同情心を書き残していた。

 全部トラウマになって、人間変わってしもたんやなあ。「戦争で変わらはった」という母の言葉が初めて腑(ふ)に落ちたんです。ラジオで陣中日記を朗読しました。多くの反響があった。「うちも同じ」という声ばかり。

 母は生前、言っていました。戦争は、生きるも死ぬも地獄やと。ほんま、その通りですわ。(聞き手・後藤遼太)

     ◇

 過酷な戦争体験で心に傷を負った元日本兵の存在は、戦後社会で長く埋もれてきた。祖父や父に何があったか知りたい――。そんな願いが「戦争トラウマ」に光を当て、国を動かし始めた。

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 くわばら・しょうへい 1944年、京都府生まれ。69年にアナウンサーとして関西テレビに入社。2004年、フリーに。現在ラジオ番組を持つほか、種智院大学客員教授も務める。