直接、人間関係があるとかないとか、そういう問題ではなく
相手の心も自分の心も状況下に於いては同じような境遇に陥り、同じような判断を下すであろう
という、心の共有化が図れない。想像できない。自分の心が自分の世界で閉じるのではなく、自分の心は誰の心にも同じ境遇では誰の心にも宿るであろうと、想像をなんらかしらの原因・理由で推し量ることが困難な人は、孤立が厳しくなるので、本当にどうしたら、良いのか、思案を巡らせるところにあるわけですけれど。
詰まり、日本の教育というのは、幼少期の頃から例えば、英才教育を受けると、はっきりと他者と自分を区別する英才教育をするので、差別感情を煽られる、エリート教育を受けるのですね。
これは、極めて、ナチス的で、差別教育の弊害だとしか、評しようがない。
エリート教育で成功を修め、又、実社会でも一定の地位を得た、エリートは結局、自分の教育の再体験を自分の子に課すところで、人間ならではの、不完全さ、不明瞭さ、単純さを垣間見る次第であります。
詰まり、成功体験の多い人は自分の思考というものが成功に裏付けられており、自信に漲っているので、思想変更が難しかったりするのですね。
或る意味では、社会の上層部に君臨する人は成功体験に裏付けられ、富も得、自信も漲っていらっしゃることから、失敗者、落伍者に対する、評価が、「努力が足りない」とか、短絡的な発想しか起きにくい。
疵つき、傷ついた者への配慮が難しいのも、
外国人労働者に対する、日本の冷遇というのが、成功者に限られた、お上判断なので、痛みを共有することが難しいというより、失敗体験が顕著に乏しい成功者は自らの思考体系を疑う時間もなければ、正しいと、成功者の周囲も評価するので、硬直的な思想に陥りやすいのですね。
それが、勝者と敗者を区別せざるを得ない、社会運営の難しいところでしてね。
余り疵の痛みが激しいようでは、社会での重職としての地位を築く、機会もなければ、ご本人もお望みでないことが、益々、社会での意識格差と分断を招いていく、短所にも至っているのではないのか、とそう、素人ながら、社会分析をしてみるわけですけれど。
じゃ