徒然なる儘に ・・・ ⑤

心機一転、新たにブログ再開です💕 雑談を書くことも多いですけれど・・・(主に、電子ゲーム・ネタ💕)、残りは【新聞記事】にコメントを入れています💕

私が聞いた亡霊の聲の正体とは、機械音、詰まり、鉱物を融解と鋳造の結晶、詰まり、元々、生物が存在する以前の天地創造時代と、生物の死骸の結晶が鉱物だから・・・

基督を中心とするならば・・・。

 

我々は紀元前も紀元後も知っている訳ですけれど・・・。

 

山地を容(あら)ため、陸海から採取可能な鉱物(天地創造の瞬間の無生物時代と、天然資源=主に生物の死骸の結晶)を採取し、抑々、産業が高度化するほど、天然資源を人類が加工し、人類にとって、利便性の高い「科学技術立国」をお互い推進して、戦争すらも、高度技術化時代を迎えたことから。

 

基督が存命辺りでは、地獄(戦争=サタンの住む世界が泉)も底が浅く、特に戦争に於ける肉体的な損傷という被害は矢張り、その当時の社会としては、社会問題化した訳だが。機械戦争時代を迎えて、心的外傷後ストレス障害など、肉体的な損傷は高度医療技術に依って、快復(改善)の萌しが見受けられるようになってきたが、未だ、自己再生医療時代はフィクションの儘なので・・・。移植手術に依る、延命化医療措置は現実の医療技術となっているものの・・・。永続する精神危機の払拭医療技術が未発達な儘、詰まり、精神医学としては、二十世紀中盤にフロイトが活躍して、大きくクローズアップされた時代背景でもあり、未だ、フロイトが活躍した時代から100年も経過してない、2023年が現代の時代である。

 

映画「オーメン」にしても、永井豪氏作「デビルマン」「デビルマンレディー」にしても、人類誕生以前、氷河期時代に「悪魔」が地球上に生存していたいう、設定で物語が始まる訳だが・・・。

 

その悪魔の正体はどう考えてみても、第二次成長期(性ホルモンの異常な分泌が男女ともに生殖可能な実年齢に達することから、社会に対して、反抗的な側面が顕著に至るのも、何が健全な社会なのかは、人類にとって、恒久的な平和な社会であることが、恐らく、「健全」な社会であろうし・・・その生殖活動が盛んな十代後半から四十代後半いや、六十代くらいまで、性的なメディアに自己の性的満足の充足感を得ようとするのも、睡眠欲、食欲、排泄欲は生後間もない時から本能的に発症する人間のある意味では、原罪でもあり、なぜならば、睡眠欲はまぁ、脳を休めるため、明日に向けて、心機一転するために必要な魔法の欲望だけれど・・・。食欲は、殺害に於いて、飽くまで、人間教育を施すことで、人間以外の生物を人間のための食糧として、人間教育の根幹として、人間を食さないように人間教育の基礎教育を施すことであり・・・。排泄欲は、呼吸による排泄(酸素を肺に吸収し、二酸化炭素を排出するための生から死まで、四六時中繰り返される、×排泄●排出 欲であり、後は利尿作用欲と、便の排泄に関しては、消化に依る、日常的に繰り返される、新陳代謝のための本能的な欲求であって。)性欲は男性×男性、男性×女性、女性×女性、或いは個人x機械(コンピュータの画像・映像)、個人x機械人(性的充足感を満たすための性的奴隷機械人)という一個人が一個人が獲得するための戦いであることから、極度に一個人が強調されることで、己以外、己のパートナー探しのために、己以外は敵だとの認識がまぁ、十代後半から死まで続くわけである。それに沿って、社会教育の一環である、学校教育も施される教育であって・・・。

 

話は飛ぶが、2021年度、小松製作所(本社:港区溜池)は、慶應義塾大学からの採用者は零である。之は小松製作所の社内教育の延長線上として、慶應義塾大学という大学教育の現場がそぐわないことを証明した、小松製作所内での慶應義塾大学卒者が社内外ともにコマツという社会では社内の競争社会に不向きであるとの証明が実践問題として、証左されたのであろう。まぁ、小松製作所といえば、主に難関大学卒者が目指す、一流企業とされており、その中に、慶應義塾大学卒者も一名も採用しない、2021年度の現実は過去の小松製作所慶應義塾大学卒者の多くが、左遷人事に遭遇したのか、違法行為を犯して、社外に追放されたのか、或いは、ハラスメント被害に遭遇しやすい人間教育現場なのが、慶應義塾大学の人間教育であったことから、株式会社小松製作所は慶大からの採用を控えたのであろう。

 

悪魔とは最早、修復不可能な相手のことを指しており、神がいれば、悪魔もいるのだろうが、信教の自由は合憲なので、個人の良心の自由の問題であって、宗教教育は強制されてはならぬ人間教育の一環とは、現代の日本人の人間教育ではそのように日本国憲法が定めており、大体、信教の自由と良心の自由は同位置かと思われますけれど。

 

相手を悪魔呼ばわりして、最早、関係修復不可能な人間であると自らがするのであれば、己の心に鬼畜な心は果たしてないのか、又、鬼畜の言動・行動を自らが犯した体験・経緯が本当にないのか、自らを律し、自らの過去の記憶を蘇らせ、その記憶の中で自らの記憶の再体験する必要性があるのではないのか❓

 

じゃ