はちまき姿の分厚い丸眼鏡の男は、ベートーベンの第九を口ずさみながら、驚くべきスピードで板を彫りすすんだ。野外でのスケッチでは写真家の土門拳をして、俺のシャッターよりもお前の絵のほうが早いよ、と言わしめた
▼版画家・棟方志功(むなかたしこう)である。おととい5日が生誕120年だった。青森の鍛冶(かじ)屋に生まれ、「わだばゴッホになる」と上京した話はあまりに有名だ。記念の展覧会が、いま郷土で開かれている。10月からの東京での開催を前に、ひと足早く訪れた
▼仏や神話の人物の像は、原始的な力強さにあふれながら、どこか童心を宿している。女性はあくまでふくよかである。〈志功描く女の顔はいとあやし遊女とも見ゆ菩薩(ぼさつ)とも見ゆ〉小林正一。街にわずかに漂うねぶた祭の余韻には、棟方版画の色鮮やかさの源流を感じた
▼本人は30代から「板画」とよんだ。板の声をひたすら聞く。年齢を重ねるにつれ、さらにその先を目指した。言葉を残している
▼「自分を忘れ、板刀も板木も忘れ、想(おも)いもこころも、忘れるというよりも無くして仕舞わなくてはならない」。もはや彼我の区別もない。芸術の道に身を燃やし尽くした天才だけが間近にできる悟りの境地である
▼無心の姿を、親友の草野心平も見たのだろう。こんな詩をつづっている。「ゴッホになろうとして上京した貧乏青年はしかし/ゴッホにはならずに/世界の/Munakataになった(略)そして近視の眼鏡をぎらつかせ/彫る/棟方志功を彫りつける」