明治26年(1893)
確かに山田荘一氏は、尋常ならざる、目力があったけれど。油機製造部工作課の工作課の二階の階段に私を呼び寄せて、無言で、私を睨みつけ、物凄いジェスチャーで私の脳を襲った。
誰も周囲にいないことを確認した、山田は、事前に山田の上司から貰った賄賂金に応じて、私を自殺させるつもりだったのであろう。
狙いは私にあるのではなく、文藝春秋社(私の亡父)へのコマツの復讐の代償が恐らく、人身御供として、私が選ばれたのだ。
亡父は恐らく、文春内でも政敵は意外と多かったのではないのかな。亡父とは、私が出生したから、亡父の死去まで、47年間、亡父と過ごしたが、恐らく、亡父には社友がいたのであろうか。亡父が文春の忘年会に参加した話も家族内で一度も出なかったし、自宅に亡父の社友を連れて、帰ってきたことも唯の一度もなかった。
亡父の最終職責は、校閲部部長だが。
文春のアルバイト員の時給を上げるよう、文春社内で運動したとは聞いたことはあったが。
亡父は社内で浮いていた存在ではなかったのか。
元々、父にしても母にしても、友人らしき他者がいたであろうか。それでも、亡母には若いころから中年に至るまでは亡母に友人はいたが・・・。
自宅で、亡父や亡母の友人が寝泊まりしたことは恐らく私の人生上、ただの一度もない。