結局、私は、大学を卒業して、この方以来、無実の死刑囚の儘だ。
コマツは、無実の私を40年間も死刑囚に仕立て上げ、
日本の国家安全保障問題が暗礁に乗り上げるように、故・中曾根康弘氏から裏金工作されて、
コマツ川崎OB会会長(小松製作所小山工場油機製造部元主任)山田荘一氏に暴力団を演じさせ、
http://www.komakawaobkai.sakuraweb.com/
私を解離性障害者に仕立て上げた。
93年11月のことである。
翌年、同工場総務部総務課長であった、筆谷欣五郎氏が亡父と私を小山工場に来工するよう、求めたので、私と亡父はそれに応じた。
筆谷氏は山田氏の私に対する暴力行為、暴言、執拗な面罵など、意に介さず姿勢で一貫し、
亡父が山田氏の私に対する、度の過ぎた、指導に対して、雇用側の就業姿勢を問うたが
余り、諄いようでは、
森喜朗氏
が
黙認しませんよ
私の疵ついた心を更に深く抉った。
本社の健康管理室で健康診断を受けるように、と、筆谷氏は指示する。
実際は、本社で健康診断を受けることなく、故・林峻一郎コマツ産業医(精神科医)と本社ビルの隣のホテルを一室借りて、そこで、私は林医師から診察を受けたが・・・
本社に秘密裏に画策したのであろうか。
その時は既に、私は解離性障害が可成り酷く、自室から一歩も外出できない日々が続いた。
私は大学を卒業したと同時に全く意味不明な、暴力行為・暴言を山田氏から浴び課せられ、
その理由で一番考えられるのが、
私の祖母と私が平和憲法記念日生まれであるという事実だ。
恐らく、生年月日は人体製造番号になっているのでね。
私が生まれながらの立憲主義者で、マルキスト(アカ)であると、烙印を押した策略とは、コマツが、後の大規模自然災害多発を狙って、赤字解消にコマツは詐術を巡らせたのであろう。
※病前から私は自己の心の風景が天地と一致する雲行き空になることを薄々とは自覚していたが・・・
※コマツは私以上に私の謎を熟知している、企業で、伯父が東電社員であったことも調べ上げたのであろう。
更に、祖母も私も42年生まれで、スーパーコンピュータが叩き出した算出では、42という数字は万物の根源を表す数字であると窺った。
ディープ・ソート(Deep Thought)は、アメリカ合衆国で開発されたチェスコンピュータである。 カーネギー・メロン大学で許峰雄らにより開発され、許らが大学卒業後にIBMに入社したのに伴い、IBMで開発が継続された。
本草学、暦学は戦後教育で学習機会がないため、履修科目となっていない。
コマツの政治利用が本格的に始まったのが93年11月ということだ。
令和六年五月十九日、ねんきん宅急便が我が家に届いた。
私は65歳に至ったら、年間の年金額が40万円だ。
事実上、餓死であろう。
コマツが93年に社としての政略的理由から新人を誑かし、政治利用した、結末がこの有様だ。
コマツは人殺しと言わざるを得ない。
実際、人殺し兵器製造でコマツ社員を養っているからね。