徒然なる儘に ・・・ ⑤

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(耕論)「憲法の番人」機能不全? 伊藤真さん、佐々木くみさん、境家史郎さん 2024年2月7日 5時00分

 日本の最高裁は安全保障政策など政治に深く関わる問題について、違憲かどうかの憲法判断に消極的だと言われてきました。「憲法の番人」としてふさわしい姿なのか、考えました。

 

 ■政府と一体化、判断消極的 伊藤真さん(弁護士)

 最高裁は、人権保障の役割を果たしてくれるようになっていると感じています。弁護団の一人として関わった、映画「宮本から君へ」の助成金不交付決定取り消し訴訟でも、表現の自由の問題として踏み込んだ判断をしてくれました。

 ところが、政治や統治機構にかかわる問題に関しては一転して、憲法判断も違憲判断も消極的です。これが同じ裁判所なのだろうか、と感じるほどです。まるで政治と一体化しているように見えます。

 例えば、安全保障関連法制(安保法制)や臨時国会を召集しなかった内閣の対応の違憲性が争われた裁判でも憲法判断を回避し、政治の動きを追認しました。司法は非政治的であるべきだと自ら言いながら、裁判所が極めて政治的な動きをしているように映ります。

 政権交代が事実上なかったことが原因の一つでしょう。憲法の規定では、最高裁判事は内閣から任命されます。自分たちを任命してくれる政権に対し、あまりたてつけないという思いが裁判官の根底にあるのではないでしょうか。

 裁判官は国民から直接選ばれた存在ではなく、選挙で選ばれた代表からなる民主的な政権が行った判断に謙抑的であるべきだという考え方があります。一理ありますが、立憲民主主義の政治過程の核心を守るために、司法は違憲審査権を持っているのです。

 例えば、私が代理人を務める安保法制違憲訴訟では、長く政府自身が許されないとしてきた集団的自衛権の行使を容認した安保法制の違憲性を問うています。法律制定時に「勝手に決めるな」という国民からの批判の声が上がりました。集団的自衛権を認めるかどうかは憲法改正手続きにかけ、主権者国民の考えを聞くべきでした。主権者である私たちに決めさせるべきなのに民主的な政治過程がゆがめられたのです。

 司法には、違憲判決を出し、憲法改正手続きを進めるのか、それとも違憲判決を受け入れて政治の場で憲法が許す制度に改革するかの選択を内閣や国会に問いかける役割があるはずです。しかしまったく果たされていません。政権と対峙(たいじ)し、「憲法の番人」としての役割を最高裁に果たしてもらうためには、裁判官の任命過程を透明化するべきです。公正・透明な手続きにゆだねることで、政治介入を防ぐことができます。司法の独立を守り、違憲審査権の行使を活性化することにもつながるでしょう。(聞き手 編集委員豊秀一

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 いとうまこと 1958年生まれ。法律資格受験指導校「伊藤塾」塾長。「一票の格差」訴訟など憲法訴訟にも関わる。著書に「憲法の力」など。

 

 ■司法頼る前に、できること 佐々木くみさん憲法学者

 日本の最高裁違憲判断を出すのに消極的と言われてきました。しかし、違憲判断に消極的だからというだけで「憲法の番人」の役割を果たしていないと評価を下すことは早計です。

 司法は「法の支配」を実現する機関です。権力者が恣意(しい)的に権力を振るう「人の支配」の反対の考え方といえます。ただ、「法の支配」といっても法を適用するのは裁判官で、裁判官による「人の支配」に陥る危険をはらんでいるのです。

 象徴的なのが、2022年6月の米国連邦最高裁の判決です。約半世紀ぶりに判例を変更し、人工妊娠中絶憲法上の権利として認めなかったのです。結論の理由づけにも疑問が多く、最高裁の裁判官のメンバーが変わったから判決も変わったとしか思えませんでした。裁判官による「人の支配」を印象づけました。

 重要なのは、違憲判断に積極的か消極的かではなく、判断が「法の支配」と認められる範囲内で行われているのか、でしょう。

 婚姻時に夫婦のどちらかの姓を選択することを強制する民法750条の合憲性が争われた21年6月の最高裁決定を取りあげましょう。「合憲」とした多数意見の前提には姓を強制される不満があるのであれば国会を通じて民主的に決めて下さい、という発想があります。しかし、私がひかれたのは、「違憲」とした三浦守裁判官の意見でした。姓を変えることを望まない当事者にとって、意思に反して姓を変更して結婚するか、結婚をしないか、を迫る婚姻の自由への制約で、民主的なプロセスに委ねるのはふさわしくない、と述べたのです。姓を変えることを望まない当事者に同姓を強制することを、婚姻の自由を保障する憲法24条の規定に違反すると解する余地はあったのです。

 目の前にいる困っている人たちをどう救済するのか、多数意見の裁判官には踏み込んだ検討をして欲しかったと思っています。

 ここで立ち止まって考えたいのは、司法による違憲審査に頼る前に私たちにやるべきことがあるのではないか、ということです。

 亡くなった米国連邦最高裁ギンズバーグ裁判官は、市民に対しても広い見識をもち他者と議論することを求めました。自由を育てることが大切なのです。元米国連邦控訴裁のハンド裁判官が述べていた通り、自由は私たちの心の中にあり、それが死んでしまえば、憲法も司法もそれを救うことはできないのです。(聞き手 編集委員豊秀一

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 ささきくみ 東北学院大学教授。専門は憲法学で、研究テーマは「憲法の基礎理論」。論文に「『思想の自由』を真面目にうけとること」など。

 

 ■立憲主義の血肉化を妨げ 境家史郎さん政治学者)

 日本の最高裁は「憲法の番人」と呼ばれますが、実際には防衛政策という統治の根幹にかかわる部分で、違憲審査の役割に消極的でした。この姿勢は日本の立憲主義を深刻な危機に陥らせていると私は思います。

 そもそも自衛隊の存在さえ、多くの憲法学者憲法第9条に違反していると指摘してきましたが、最高裁憲法判断を避け続けました。選挙で選ばれた政治家の決定を尊重すべきという最高裁の立場も理解できます。しかし、政府に憲法の枠を超えたフリーハンドが与えられるのでは、立憲主義は成り立ちません。

 非立憲的な政治が行われた場合にそれを立憲的な状態へ戻す方法は二つあります。(1)司法による違憲審査で是正すること(2)非立憲的な政権を次の選挙で退場させることです。私の見るところ戦後日本では、どちらもまともに機能したためしがありません。自民党が下野したことはありますが、非立憲的政治が問題視されたものではありませんでした。戦後日本は非立憲的な政治体制であると、私は極論的に言っています。

 (1)が機能していないことが(2)の起きない原因になっていると私は見ます。最高裁がフリーハンドを与えたから、政府は憲法条文から離れる方向へ、なし崩し的に防衛政策を拡張できた。自衛隊を創設したうえに、海外にも派遣し、集団的自衛権の行使も容認しました。非立憲的な事態が70年続いただけではなく、深刻化していったのです。9条が何を規制しているのか、もはや一般の人には分かりにくくなっています。

 その結果として生まれたのが「柔らかい憲法観」を持つ有権者たちです。「憲法典とは融通無碍(ゆうずうむげ)に読んでよいものだ」と考えることが特徴で、政府が憲法典に反するような政策を採ってもあまり気にせず、最終的には黙認してしまう。これでは「非立憲的な政権を有権者が選挙で退場させる」事態は起きません。立憲主義の大事さは教科書に書かれていますが、血肉化されてはいないのでしょう。

 「歴史のイフ(もしも)」になりますが、もし最高裁が重要な防衛政策で違憲判断を示していたら事情は違っていたはずです。有権者にとって、憲法改正という課題に正面から向き合い、憲法は政府の政策を縛るものなのだと自覚する機会になったはずだからです。

 「憲法の番人」の機能を少しでも高めさせていく努力が求められています。(聞き手 編集委員塩倉裕

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 さかいやしろう 1978年生まれ。東京大学教授。専門は日本政治、政治過程論。著書に「憲法と世論」「戦後日本政治史」など。