ガッツは自らが生き残るためには、斃すしか為す術がない。
斃した数だけの亡霊にグリフィスが襲われ、ガッツは、人間以上の強敵(魔物)に特に蝕で襲われるのは、故・三浦氏ではないけれど。
因果の流れ・・・
三浦健太郎氏というのは、考えられようのない、智の巨人だと私は想うけれど、ね。
画力だけでも、人並外れているが。
享年五十四歳で亡くなったのは、グリフィスが三浦だったのか、それともガッツが三浦だったのか。
三浦のような異能者は、死亡年齢すら、異能ぶり・・・
もし、2023年6月6日午前6時頃、家の風呂場で現れた、蝿が三浦の生まれ変わりなのであれば、その蝿は三時間後には溺死していた。
私が想うに、神というのは、端から平等でしかなく・・・。
平等でない、生まれや才能があっても、人生や死因や生まれ変わりなどで、贖罪を果たせるまで輪廻は終わらない、超越的な存在、それが神なのではないのか・・・
私が天界を視たのは5分くらいであったが、その記憶も色あせ始めた・・・。
と
同時に、
自らの地獄変も少なくなった。
天界を視たい、という究極な欲求を自らが否定することは、恐らく、徳に相違なく、依って、現世に於いてでの天界を視ることへの惧れが、自らの望むところでない地獄の深さも又、減るのではなかろうか。
それは、一般的には脳科学の世界では、一個人の錯覚だと科学はそう判断するであろう。
翻って、Jesusは啓蒙ではなく、天啓の聖人であったのだ。神への揺るがない想いというのは、私のように機械工学という尤も、神学から遠い者でも、或る意味では、罰として、神学という学問を修めていなくとも、そういう学問に触れる機会が増すように計らうのが、天の計らいという超越的で、人の手に触れられることのない、或る意味、童心のノスタルジーの一種なのか・・・。
さぁ・・・
分からない・・・