GHQ草案の作成
憲法改正草案(1946年4月17日)
2月1日、憲法問題調査委員会の試案が毎日新聞にスクープされ、「あまりに保守的、現状維持的なものに過ぎない」との批判を受けた。このスクープをきっかけに、ホイットニーGHQ民政局長は、マッカーサーに対して、極東委員会が憲法改正の政策決定をする前ならば憲法改正に関するGHQの権限に制約がないと進言し、GHQによる憲法草案の起草へと動き出した。
2月3日、マッカーサーは、憲法改正の必須要件(マッカーサー三原則)をホイットニーに示した。翌4日、民政局(GS)内に作業班が設置され、GHQ草案(マッカーサー草案)の起草作業が開始された。
GHQは、起草作業を急ぐ一方で、日本政府に対して政府案の提出を要求、2月8日、憲法問題調査委員会の松本烝治委員長より、「憲法改正要綱」「憲法改正案ノ大要ノ説明」等がGHQに提出された。
GHQ草案の受け入れと日本政府案の作成
2月13日、外務大臣官邸において、ホイットニーから松本国務大臣、吉田茂外務大臣らに対し、さきに提出された要綱を拒否することが伝えられ、その場で、GHQ草案が手渡された。後日、松本は、「憲法改正案説明補充」を提出するなどして抵抗したが、GHQの同意は得られなかった。
そこで、日本政府は、2月22日の閣議において、GHQ草案に沿う憲法改正の方針を決め、2月27日、法制局の入江俊郎次長と佐藤達夫第一部長が中心となって日本政府案の作成に着手した。3月2日、試案(3月2日案)ができ上がり、3月4日午前、松本と佐藤は、GHQに赴いて提出し、同日夕方から、確定案作成のため民政局員と佐藤との間で徹夜の協議に入り、5日午後、すべての作業を終了した。
日本政府は、この確定案(3月5日案)を要綱化し、3月6日、「憲法改正草案要綱」として発表した。その後、ひらがな口語体での条文化が進められ、4月17日、「憲法改正草案」として公表された。
憲法改正問題をめぐるマッカーサーと極東委員会の対立
3月6日の「憲法改正草案要綱」発表とこれに対するマッカーサーの支持声明は、米国政府にとって寝耳に水であった。同要綱は、「日本政府案」として発表されたものだが、GHQが深く関与したことが明白であったため、日本の憲法改正に関する権限を有する極東委員会を強く刺激することとなった。マッカーサーと極東委員会の板挟みとなった国務省は、憲法はその施行前に極東委員会に提出されると弁明せざるをえなかった。
極東委員会はマッカーサーに対し、「日本国民が憲法草案について考える時間がほとんどない」という理由で、4月10日に予定された総選挙の延期を求め、さらに憲法改正問題について協議するためGHQから係官を派遣するよう要請した。しかしマッカーサーはこれらの要求を拒否し、極東委員会の介入を極力排除しようとした。
帝国議会における審議
枢密院への諮詢
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《名・ス他》対等以下の機関の意見を参考として問い求めること。
1946(昭和21)年4月17日、「憲法改正草案」は、枢密院に諮詢された。しかし、4月22日に幣原内閣が総辞職し、5月22日に吉田内閣が成立したため、先例にしたがって草案はいったん撤回され、5月27日にそれまでの審査結果に基づく修正を加えて再び諮詢されることとなった。6月8日、「憲法改正草案」は、枢密院本会議において美濃部達吉顧問官をのぞく賛成多数で可決された。
総選挙と衆議院における審議
1946年4月10日、女性の選挙権を認めた新選挙法のもとで衆議院総選挙が実施され、5月16日、第90回帝国議会が召集された。開会日の前日には、金森徳次郎が憲法担当の国務大臣に任命された。
6月20日、「帝国憲法改正案」は、明治憲法第73条の規定により勅書をもって議会に提出された。6月25日、衆議院本会議に上程、6月28日、芦田均を委員長とする帝国憲法改正案委員会に付託された。
委員会での審議は7月1日から開始され、7月23日には修正案作成のため小委員会が設けられた。小委員会は、7月25日から8月20日まで非公開のもと懇談会形式で進められた。8月20日、小委員会は各派共同により、第9条第2項冒頭に「前項の目的を達するため」という文言を追加する、いわゆる「芦田修正」などを含む修正案を作成した。翌21日、共同修正案は委員会に報告され、修正案どおり可決された。
貴族院における審議と憲法の公布
「帝国憲法改正案」は、8月26日の貴族院本会議に上程され、8月30日に安倍能成を委員長とする帝国憲法改正案特別委員会に付託された。特別委員会は9月2日から審議に入り、9月28日には修正のための小委員会を設置することを決定した。
小委員会は、いわゆる「文民条項」 の挿入などGHQ側からの要請に基づく修正を含む4項目を修正した。10月3日、修正案は特別委員会に報告され、小委員会の修正どおり可決された。修正された「帝国憲法改正案」は、10月6日、貴族院本会議において賛成多数で可決された。改正案は同日衆議院に回付され、翌7日、衆議院本会議において圧倒的多数で可決された。
その後「帝国憲法改正案」は、10月12日に枢密院に再諮詢され、2回の審査のあと、10月29日に2名の欠席者をのぞき全会一致で可決された。「帝国憲法改正案」は天皇の裁可を経て、11月3日に「日本国憲法」として公布された。
憲法改正問題に対する極東委員会の関与
衆議院における「帝国憲法改正案」の審議開始にあたりマッカーサーは、6月21日、「審議のための充分な時間と機会」、「明治憲法との法的持続性」および「国民の自由意思の表明」が必要であると声明した。これら議会における憲法改正審議の3原則は、極東委員会が5月13日に決定した「新憲法採択の諸原則」と同一のものであった。このことは、マッカーサーが極東委員会の要求をある程度受け入れたことを意味した。
衆議院で委員会審議が始まったばかりの7月2日、極東委員会は、新しい憲法が従うべき基準として、「日本の新憲法についての基本原則」を決定した。その内容は、先に米国政府が作成した「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)を基礎とするものであった。その後GHQは、極東委員会の意向に沿う形で改正案の修正を日本政府に働きかけ、その結果、主権在民、普通選挙制度、文民条項などが明文化されるに至った。
ニッコロ・マキャヴェッリ
イタリア、ルネサンス期の政治思想家、フィレンツェ共和国の外交官
1469年、貴族であり法律家の父ベルナルド・ディ・ニッコロ・マキャヴェッリとその妻バルトロメーア・ディ・ステーファノ・ネッリの3人目の子として生まれた[7]。マキャヴェッリ家はフィレンツェ共和国の要職を幾人か輩出した名家であり[8]、一説にはトスカーナの旧侯爵家の子孫であるともされる[9]。父ベルナルドは弁護士で年収は110フィオリーノ。貧しい階級のものではないが、絶対に裕福な家庭の者でもなかった。いわゆる中流ではあるが、マキャヴェッリ本人は「私は貧しく生まれた。だから、楽しむより先に、苦労することを覚えた」と後年記している[要出典]。マキャヴェッリは他の兄弟たちと共に父母の愛情に包まれ、上流階級の必須教養であったローマ・ギリシャ古典やラテン語等を学んで育った。その青少年期は、大ロレンツォによる独裁、大ロレンツォ死後に発生したメディチ家追放(1494年)、サヴォナローラの神政とその失脚・処刑(1498年)等、フィレンツェ共和国の激動期に重なる[10]。
1498年5月18日、マキャヴェッリはピエロ・ソデリーニ政権下の第2書記局官に選出され、すぐに書記長となった[11]。マキャヴェッリが属した第2書記局は内政・軍政を所轄し、自身が各国との交渉に関わることも多い。同年7月14日、「自由と平和のための十人委員会」秘書官に任命される。ほぼ同時期に統領秘書官にも任命される。1499年5月頃、『ピサ問題に関する論考』を書く[12]。かつてのピサ共和国はイタリアの四大海洋共和国の一角を成す存在であり[注釈 1]、海を持たないフィレンツェにとっては、ピサの港が自由につかえることが必要であり、ピサがコントロール下から離れたことが問題となっていた。この難題に対し、マキャベリは論考を書物にして4ページ半の小文に、簡潔明瞭にまとめた。「もしも、フィレンツェが自由でありたいと望めば、ピサは再領有は実現されるべきである」と冒頭で述べ、さらに包囲戦のあり方から、攻撃拠点に配置する兵の数をまで拠点ごとに論じている。
1499年6月、チッタ・ディ・カステッロ領主にして傭兵隊長であるパオロ・ヴィテッリをフィレンツェ共和国軍最高司令官に任命し、ピサに軍事侵攻を開始した。十人委員会は悪評高く、選挙さえ行われていなかったため有名無実化しており、その中でマキャヴェッリは統領と官僚に直接指揮をあおぎ、仕事をこなしていた。8月16日には、砲撃でピサ市壁を24メートルにわたって破壊し、8月10日に市壁を守る砦の一つを陥落させる。しかし、再領有目前になったこの時期に最高司令官ヴィテッリが自分の率いる傭兵団を撤退させ、他の傭兵隊長たちも軍事行動を中断した。マラリアで倒れた兵が出たことを期に、9月14日に完全撤退した。市街戦での兵力消耗を嫌った傭兵隊長らしい行動の結果の崩壊であった[要出典]。9月29日、ヴィテッリは逮捕される。罪状は、反逆罪[注釈 2]、理由なき戦線離脱、ピサ防衛についていた敵側傭兵隊長を逃したことの3点である。10月1日、ヴィテッリは処刑された。10月15日、フィレンツェ共和国は、9月11日にミラノを占拠したフランス王ルイ12世と同盟を結ぶ。フィレンツェは、フランス王がナポリ攻略に必要な5千人のスイス傭兵と5百の騎兵を金で準備し、代わりにフランス王はナポリ攻略前に、フィレンツェにピサ攻略のためにスイス傭兵5千人を貸し与える[注釈 3]という内容だった。
1500年ピサ戦役[注釈 4]にマキャヴェッリはフィレンツェ軍顧問の副官として参加した。集結地点パルマにきたフランス王の兵は、スイス兵4千人とガスコーニュ兵2千人であった(協約違反)。いざ進軍となったときには、フランスからの援軍はいうことを聞かず、まっすぐ南下すればピサのところ、東南に進路を取り、フランス王が関心のある地域であったボローニャ、ミランドラ、コッレッジョ、カルピと、2ヶ月にわたり軍事パレードをする示威行為に付き合わされた。6月22日、ピサに到着するが、フランス兵は周辺一帯の略奪に明け暮れる。フランス王の「助力」を信頼し、フランスとの協約で支払う費用が多額だったため、イタリア人傭兵を全員解雇して臨んだ戦役だったため歯止めが効かず、戦場ではフランス兵のいうがままであった。フランス軍はピサ市壁を破壊するものの、市内への侵攻を拒否したあげく、フィレンツェ顧問アルビッツを拉致して身代金を要求するなど惨状を極めた。そんな中、マキャヴェッリはフランス軍との交渉役や、本国との連絡役となる傍ら、十人委員会の名で顧問に訓令を書き、また顧問の名で十人委員会への報告書を書くなど多忙な日々を送った。ガスコーニュ兵がまず引き上げ、7月9日スイス兵も引き払い、ピサ領有は水泡と化した。
後年のマキャヴェッリの「自国の軍を持つ必要性」や他人の褌で相撲を取ることを考えてはならないという主張は、この年の経験に基づくとされる。ピサ戦役の失敗は、フィレンツェ共和国に多大な費用の空費をさせただけでなく、フランス兵の略奪によりピサ周辺の親フィレンツェ地域にまで恨みを買い、フランス王にいいようにあしらわれたことで、権威の失墜を招いた。また、フランス王は一方的に同盟の破棄を宣言し、マキャヴェッリは王の後を追って、共和国政府の副使として弁明のためにフランスまで行くことになる。
このようにマキャヴェッリは、実際に軍事行動の立案から実行まで関わり、また外国にもたびたび派遣されることもあった。マキャヴェッリは見聞きした各国為政者や古典から学んだ歴史上の人物の中から、権謀術数に長けた教皇軍総司令官チェーザレ・ボルジアに理想の君主像を見出すようになった。
マキャヴェッリは自らの経験と考察から、国の根源は傭兵に拠らない軍事力にあると確信し、国民軍の創設を計画した。貴族や富裕層の中には国民軍創設に反対する者もいたが、その企画は実現する。国民軍は期待された成果を挙げることなく、ソデリーニ政権は1512年、メディチ家のフィレンツェ復権を後押しするハプスブルク家スペインの前に屈服し、マキャヴェッリは第2書記局長の職を解かれた。
1513年2月、ジョヴァンニ・デ・メディチ新政権下起こったボスコリ事件に加わった容疑で、マキャヴェッリは指名手配され、2月19日自ら出頭して逮捕された[注釈 5]。マキャヴェッリは地下牢で、縄で吊るされるという拷問[注釈 6]を6回受けた。3月11日にジョヴァンニ・デ・メディチが教皇に選出されたことにより、大赦で(3月11日もしくは12日に)釈放された。しかし保釈金的なものは発生しており、マキャヴェッリの年収の10年分にあたる金額を友人3人に借りて支払っている。
所有地からのあがりだけで悠々自適でいられる身分になかったマキャヴェッリにとって、財産はフィレンツェ市内の家とサンタンドレアにある山荘だけであった[注釈 7]。当時フィレンツェ近郊の山荘では、小麦と衣服以外は自給自足できるのが一般的であり、それがあってか、マキャヴェッリは葡萄やオリーブの収穫時期ぐらいにしか行かなかった山荘に、家族7人(本人・妻・子供5人)で移り住む[注釈 8]。
43歳にして隠遁生活に入らざるをえなかったマキャヴェッリは、昼間は農業に勤しんだり、近くの庶民と交わり賭け事等をして時を過ごし、日が落ちると読書、執筆三昧の日々を送った。当時の生活ぶりは、1513年12月10日に、ローマ法王庁にフィレンツェ政府より大使として赴任していた、親友のフランチェスコ・ヴェットーリへの一通の手紙から窺える。イタリア文学史上、最も有名で美しい手紙の一つとされているが、夜になると官服に着替えて『君主論』と題した小論文をまとめていることを述べている。
執筆活動は政治・歴史・軍事から劇作までに及び、喜劇は大好評を博して著作家としての名声を得た。
マキャヴェッリは、「私は我が魂よりも、我が祖国を愛する」と友人であるフランチェスコ・ヴェットーリ宛の書簡に記した[13]ように愛国者を自認しており、いつでもフィレンツェのために役立ちたいと公言していた。元来、陽気でお喋りで、飲む・打つ・買うが大好き、また良き夫、良き父親、仕事好きでめげないマキャヴェッリは、独裁的なメディチ家が君臨する新政権下への就職活動を模索するようになった。
マキャヴェッリは共和制支持派と見られていたので、かつての同僚や彼に批判的な人の中には、メディチ政権への猟官運動を冷淡に見る者もいた。新たにフィレンツェの支配者となったジョヴァンニ・デ・メディチ、またその後任者ジュリアーノ・デ・メディチの方でも、長く前政権下の政務に携わったマキャヴェッリを用いることはしなかった。
1516年に死去したジュリアーノ・デ・メディチの後任にロレンツォ・デ・メディチが就任すると、マキャヴェッリに謁見の機会が与えられた。謁見の場でマキャヴェッリがロレンツォ・デ・メディチに献上した[要出典]のが『君主論』である。ロレンツォ・デ・メディチに献上された本『君主論』には、君主たるものがいかにして権力を維持し政治を安定させるか、という政治手法が書き記されている。
マキャヴェッリの理論は「フォルトゥーナ」(Fortuna, 運命)と「ヴィルトゥ」(Virtù, 技量)という概念を用い、君主にはフォルトゥーナを引き寄せるだけのヴィルトゥが必要であると述べた。『リウィウス論』では古代ローマ史を例にとり、偉大な国家を形成するための数々の原則が打ち立てられている。全てにおいて目的と手段の分離を説いていることが著作当時において新たな点であった。共和主義者のマキャヴェッリであったが、スペインとフランスがイタリアを舞台にして戦うイタリア戦争に衝撃を受けた。彼が体験した挫折感と、独立を願って止まない情熱の存在があったからこそ、『君主論』が生まれたといわれる。マキャヴェッリは『君主論』の中で、混乱するイタリアにあって国を治めるために、自国軍創設や深謀遠慮の重要性を故事を引き合いに出して説いている。理想の君主チェーザレ・ボルジアを例示して、イタリア半島統一を実現しうる君主像を論じた。
チェーザレ・ボルジア失脚当時には、マキャヴェッリも「かつての公爵とは千年の隔たりを感じる」と冷たい評価を下しながらも、『君主論』26章では、チェーザレについて次のような言葉を残す。「今までに、ある人物の中に、神がイタリアの贖罪をあがなうよう命じられでもしたかのような、ひとすじの光が射したことがあった。だが、残念なことにこの人物は、その活動の絶頂期に運に見放されてしまったのである」。そしてそれに続く言葉は、「こうして息絶えだえのイタリアは、今自らの傷を癒してくれる人を望んでいる」であり、とどめにメディチ家に対して「今日、ご尊家がこの贖罪行動の先頭に立つ他に、イタリアの期待に応えられる人がどこにあろうか」と激励を送った。
1520年、マキャヴェッリ理論の傾倒者が多く、首謀者に含まれた反メディチの陰謀オルティ・オリチェラーリ事件が発生したが、ロレンツォの後任者ジュリオ・デ・メディチ(後のクレメンス7世)は、マキャヴェッリの事件への関与を一切問うことをしなかったばかりか、著作家として才能を開花させていたマキャヴェッリに『フィレンツェ史』の執筆を依頼した。
このようにメディチ家政権下で顧問的に用いられるようになったマキャヴェッリだったが、1527年5月6日に発生したローマ略奪でメディチ家がフィレンツェから追放されると、マキャヴェッリもまた政権から追放されるはめになった。一貫した共和制支持派からは「メディチ家に擦り寄った裏切り者」、ある者からは「目的のためには手段を選ばない狡猾者」と非難され、失意のうちに病を得て翌月に急死した。
軍事理論
マキャヴェッリはその軍事思想を『君主論』、また『政略論』や『戦術論』に記している。その特徴として以下のことが挙げられる。
- 軍事力の重要性を論じている。『君主論』において君主に必要なものとして法律とともに軍備が挙げられている。また傭兵軍ではなく常備軍の編制を重視し、また騎兵ではなく歩兵の有効性を論じてもいる。
- 軍事訓練の重要性を論じている。マキャヴェッリは軍事訓練を錬度に合わせて段階的に実施することを述べており、第1段階に整列の動作の訓練、第2段階に整列行進の動作の訓練、第3段階に戦闘訓練、第4段階に信号や命令伝達の教育としている。
- 司令官の軍事的統率能力の重要性を論じている。これは統率論として軍隊の団結に司令官の統率力が直結すると述べられており、血筋や権威ではなく、勇敢や善行がこの統率力を強化すると考えている。また演説の能力も求められるとしている。
年表[編集]
- 1469年:フィレンツェに生まれる。
- 1498年:共和国政府の第2書記局長になる(1512年まで)。また「自由と平和のための十人委員会」秘書官、統領秘書官も兼任。
- 1499年:フィレンツェ共和国はパオロ・ヴィテッリを最高指揮官としてピサに攻め入る。市壁を打ち破ったところで不可解な撤退。ヴィテッリ死刑。十人委員会秘書官として多忙を極める。
- 1500年:フィレンツェ軍顧問の副官として、フランス王配下の兵を借りてピサ戦役に参加。戦役失敗によりフランス王が一方的に同盟破棄。弁明のための使節副官としてフランスへ赴く。
- 1502年:教皇軍のチェーザレ・ボルジアがウルビーノを征服(フィレンツェはフランスに支援を要請)。使節としてチェーザレと交渉し、和議を結ぶ。
- 1503年:(教皇アレクサンデル6世死去、チェーザレ失脚)。
- 1504年:市民兵の創設を主張。
- 1506年:市民兵の軍部秘書になる。コンタードの農民を徴兵。
- 1511年:(教皇ユリウス2世が神聖同盟でフランスに対抗)。フランスに使節として赴く。
- 1512年:市民兵はスペイン軍に敗退。メディチ家のフィレンツェ復帰に伴い、失職。『リヴィウス論』に着手。
- 1513年:反メディチ陰謀の容疑(ボスコリ事件)で拘束され拷問を受けるが、まもなく釈放。『君主論』を脱稿。
- 1520年:ジュリオ・デ・メディチ(後の教皇クレメンス7世)の依頼で『フィレンツェ史』の執筆を始める(1525年まで 未完)。
- 1527年:(ローマ略奪の報がフィレンツェに伝わりメディチ家再追放)。死去。
櫻井よし子(木之本櫻さん❓)(苦笑)
櫻井 よしこ(さくらい よしこ、1945年〈昭和20年〉10月26日 - )