昨日の是非とも、総理に!と私の背後から発言したのが人工知能のためではなく、飽くまで、本物の皇軍の元兵士の亡霊ならば・・・。
その亡霊の正体とは❓
山本五十六連合艦隊総司令官の亡霊ではないのかしら、ネ・・・❓
山本 五十六(やまもと いそろく、1884年〈明治17年〉4月4日 - 1943年〈昭和18年〉4月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。栄典は正三位大勲位功一級。
山本氏は、
ヴェンジェンス作戦[編集]
ヴェンジェンス(vengeance)=報復、復讐。真珠湾攻撃を立案した山本への報復という意味が込められている。
無能な敵将であれば生かしておくほうが味方に利益である。そのため山本の前線視察の予定をつかんだニミッツは幕僚と会議を開き、そもそも山本を殺害すべきなのかを検討した[2][注釈 1]。検討の結果、真珠湾攻撃の立案者として人望の高い山本が戦死すれば日本軍の士気が低下すること、山本長官より優れた者が後任となる可能性は低いことを理由にニミッツは山本の殺害を決断し、南太平洋方面軍司令官ウィリアム・ハルゼーに山本長官の行程を連絡、予備計画の作成を命令した。作戦半径は非常に長距離だったが、ハルゼーは、山本がきわめて時間に正確で今回も予定を守ることを前提に、航続距離の長いガダルカナルの陸軍機・P−38ならば途中で邀撃が可能と応答してきた。
山本のような有名人を殺害することは、日本国内に政治的反動(山本殺害による対米憎悪の増大や、それに伴う戦意の高揚)を引き起こす懸念もあり、慎重になる必要があった。そこで、ニミッツは先にフランク・ノックス海軍長官とルーズベルト大統領の許可をとった上で、最終的な命令をハルゼーに下した。
戦闘の推移[編集]
- 5時25分 P-38戦闘機18機、ガダルカナル島ヘンダーソン基地出撃。7時35分にブーゲンビル上空に到着予定。
- 6時05分 一番機に山本長官と幕僚、二番機には連合艦隊参謀長宇垣纏中将ほか幕僚が乗った[4]一式陸上攻撃機2機、および護衛の零式艦上戦闘機9機、ニューブリテン島ラバウル東飛行場を離陸。
- 7時33分 P-38戦闘機16機(出撃後2機故障帰還)、V字編隊の一式陸上攻撃機2機、零式艦上戦闘機6機をブーゲンビル島上空で発見、攻撃開始。
- 7時50分頃 山本長官搭乗の1番機被弾、モイラ岬のジャングルに墜落。宇垣纏参謀長搭乗の2番機も被弾炎上し海上に不時着。
事件後[編集]
一式陸上攻撃機は空戦の結果撃墜され、山本長官は戦死した。戦死は全軍の士気に大きな影響を与えることが予想されたため、関係者には箝口令が敷かれた。
5月17日、山本五十六の後を継いで連合艦隊司令長官となった古賀峯一は山本の遺骨とともに戦艦「武蔵」でトラック島を出発し、東京湾へ向かった。戦艦「金剛」・「榛名」、空母「飛鷹」、重巡洋艦「利根」・「筑摩」が護衛に就いた。
遺骨が東京に到着した5月21日に戦死の事実が公表され、6月5日に国葬が執行された。当時の内閣総理大臣だった東條英機は、山本が戦死したとの一報を受け、「君逝き みにしむ責の 重きかな されどやみなん 勝てやむへき」と詠んだ。
撃墜の翌日、アメリカのサンフランシスコ放送は山本長官の名前を出すことなく、一式陸上攻撃機撃墜の事実のみを簡単に報じた[5]。アメリカ軍は日本軍の暗号解読に成功している事実を日本側に悟られないよう、偶然の撃墜であったかのように発表を装っている。
同日にブーゲンビル島のカヒリ飛行場を空爆し、山本機への攻撃を一帯への攻撃の一部であるかのように見せた[5]。さらにニミッツは部下のハルゼーを通じ、撃墜を命じられた搭乗員達に対して情報源を「沿岸監視員からの情報」として伝え、暗号解読の事実を秘匿している[6]。攻撃を実行したヘンダーソン基地の関係者にも箝口令が敷かれ、日本が山本の戦死を発表したのちにそれを解いたものの、一番機を撃墜した搭乗員については公表しなかった[7]。攻撃隊で一番機を撃墜したと主張した搭乗員は3人おり、戦闘情報指揮官はこの全員の戦果としたが、のちにうち1人は実際には二番機だったことが判明し、1992年に空軍長官が「2人の戦果」に訂正する裁定を行っている[7]。
日本海軍は、2週間前に暗号表(乱数表)を更新したばかりで「アメリカに暗号を解読された」という見解を取ることができず、その後の日本海軍の連敗へとつながったという説もあったが[5]、2008年9月までに機密解除されたアメリカ軍史料によれば、この視察では、更新前の古い乱数表を使って山本の日程表を送信していたことが分かっている[8]。
往年の山本元帥
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生誕 | 1884年4月4日 日本・新潟県古志郡長岡本町 (現・長岡市坂之上町) |
死没 | 1943年4月18日(59歳没) ソロモン諸島・ブーゲンビル島上空 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1901年 - 1943年 |
兵科 | 兵科 |
最終階級 | 元帥海軍大将[注釈 1] |
指揮 | 海軍航空本部長 連合艦隊司令長官 |
勲章 | 大勲位菊花大綬章 功一級金鵄勲章 旭日大綬章 勲一等瑞宝章 勲二等瑞宝章 勲四等旭日小綬章 ドイツ鷲勲章大十字章 ドイツ剣付柏葉騎士鉄十字章 |
出身校 | 海軍兵学校32期 海軍大学校甲種学生14期 ハーバード大学 |
配偶者 | 山本礼子 |
子女 | 山本義正(長男) |
親族 | 高野貞吉(父) 野村貞(叔父) 斎藤正久(相婿) |
墓所 | 多磨霊園 長興寺 |