徒然なる儘に ・・・ ⑤

心機一転、新たにブログ再開です💕 雑談を書くことも多いですけれど・・・(主に、電子ゲーム・ネタ💕)、残りは【新聞記事】にコメントを入れています💕

小松製作所は、蒼空と宇宙でしてね。私は、太陽と雲なのですね。

舞台を用意されていらっしゃるのは、コマツですけれど。(或る意味、空間ですね)

 

私は、日の丸だから、太陽ですけれど。

 

日の丸の周囲は、白色なので、⛅の良い日の雲ですね・・・。

 

ですから、私は、三國志では、関羽雲長を好む筈ですね・・・

 

 

日章旗 語源

 

日章旗の起源を考えると、これは一朝一夕に成立したものではなく、古事記に「この地は朝日のただ射す国夕日の日照る国也」とあるように、神代から既に太陽礼讃の思想があったもので、それ故に国号を

 

『日の本(ひのもと)』

は、恐らく、秀吉では❓

 

なので、今太閤に憧憬を偲ぶ筈ですね・・・

 

・『日の神の御国(ひのかみのみくに)』

イエス・キリストを信じるなら、天国へ行くことが出来る!…これはキリスト教の大切な教えです。死の恐怖におびえる人、特に死を間近にした人にとって、天国への希望はどんな慰めの言葉より大切です。
 しかし、聖書を学んでいくと、「天の御国」または「神の国」についての教えが次々と出てきますが、それらの多くは「天国」についての教えではないことに気付きます。
(「天の御国」はマタイだけが用いている語であり、他の福音書や書簡では同じ内容の記事でも「神の国」と表現されています。従って「天の御国」と「神の国」を区別する必要はないと考えられます。)

一、「天の御国」「神の国」とは

マタイ 4:17 この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。
ルカ 21:31 同じように、これらのことが起こるのを見たら、あなたがたは
神の国が近いことを知りなさい。
ルカ 22:18 あなたがたに言います。今から
神の国が来る時まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、決してありません。」
 これらの聖書箇所は、客観的に天国のことではないと分かります。そしてこの事が聖書を学び始めた人たちにとって悩みの種となっています。では、聖書が教える「天の御国」「神の国」は、何について教えているのでしょうか?・・・その答えは、
神様がダビデに約束された王国です。

A.ダビデとの約束
 旧約聖書には、神様がイスラエル国ダビデ王(紀元前約1000年)に約束された「永遠に続く王国」の預言があります。
Ⅰ歴代17:11 あなた(ダビデ)の日数が満ち、あなたが先祖のもとに行くとき、わたしはあなたの息子の中から、あなたの後に世継ぎの子を起こし、彼の王国を確立させる。
17:12 彼はわたしのために一つの家を建て、わたしは彼の王座をとこしえまでも堅く立てる。

 ダビデに約束された王国は息子ソロモンに引き継がれ、その後もイスラエルの王国時代は続きましたが、アッシリア帝国とバビロン帝国による侵略によって王国は滅んでしまいました。しかし、イザヤという預言者を通して次の預言が与えられました。

イザヤ書9:6 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、
ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。
 ダビデの王国を再建し、その王国を永遠に治める王が生まれるという預言です。ですからイスラエル人はこの預言をその言葉通り信じて、ダビデ王国を復興する王が生まれてくるのを待ち望みました。それがメシア(救世主)を待ち望む希望、信仰となりました。そして時代は進み、時至って約束のメシアとしてイエス・キリストが生まれたのです。


B.マリアへの約束
 イエス・キリストを身ごもったのはマリアという一人の処女でした。彼女に告げられた御使いの言葉は、次の通りです。
ルカ1:30 すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。
1:31 見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
1:32 その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父
ダビデの王位をお与えになります。
1:33 彼はとこしえに
ヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」
 イエスこそダビデの王位の継承者であり、ヤコブの家(イスラエル国のこと)を永遠に治めるお方だと宣言されています。そしてこの事が聖書全体を通して教えられていることなのです。

C.イエスの伝道
 王国再建のために来られたイエス・キリストの教えの中心は当然「神の国」についてでした。
ルカ 8:1 その後、イエスは町や村を巡って神の国を説き、福音を宣べ伝えられた。十二人もお供をした。
ルカ 4:43 しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、
神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」
 イエス・キリストの伝道は、
神の国の福音を宣べ伝えることでした。その内容は「メシアであるわたしが支配する王国に入るため、罪を悔い改め、神に立ち返れ」というメッセージだったのです。イスラエルの群衆がイエス・キリストに向かって「ダビデの子!」と叫んだのはこのような歴史的背景があったからです。したがって、現在のキリスト教会に集うクリスチャンが信じ、宣べ伝えている福音と、イエス・キリストが宣べ伝えた福音とは異なることを理解する必要があります。

D.復活後のイエス・キリスト
 墓から三日目に復活されたイエス・キリスト使徒たちに語られたメッセージも「神の国」についてでした。それは明らかに約束された「メシア王国」の事であり、天国の事ではありません。
使徒 1:3 イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。

E.使徒たちの伝道
使徒 14:22 弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めて、「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」と語った。
使徒 28:31 少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、
神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。
 これらは使徒パウロについて書かれている箇所です。パウロの働きの中心は「イエス・キリストの福音」の宣教でしたが、将来、キリストが再び地上に来られるときに実現される「メシア王国」についても宣べ伝えていることが分かります。

F.信仰者への相続財産
 使徒パウロは「神の国」を信仰者に与えられる相続財産として教えています。Ⅰコリント15章では、死んで墓に葬られているクリスチャンたちも、キリストが再び地上に来られてメシア王国が始まるときによみがえり、朽ちない栄光の体を与えられ王国に住むようになると教えています。
Ⅰコリント6:9 あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。
Ⅰコリント15:50 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは
神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。


 ※したがって聖書の教えの多くは天国についてではなく、メシアであるイエス・キリストによって確立される地上の王国のことなのです。この区別を理解することにより、聖書の本当の教えが見えてくるのです。


二、「天の御国」「神の国」の別の意味

 例外的に「天の御国」「神の国」が他の意味で用いられている聖書箇所があります。
例外1
マタイ13:11 イエスは答えられた。「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。」
 マタイ13章ではイエス様が「天の御国の奥義」としてたとえ話をされましたが、それらは教会について教えていることが分かります。(こちらのページを参照してください)
つまり、「天の御国の奥義」として教会があるということです。奥義とは英語で「mysteriesミステリー」であり、長い間、隠されてきたことを意味します。教会は神様のご計画の中で、長い間、隠されてきた特別なグループであり、イスラエルが不信仰に陥っている期間に挿入された特別な時代だと言えます。そして教会はその立場を「キリストの花嫁」として聖書で表現されています。

例外2
ルカ17:20 パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。
17:21 『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。
神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」
 この箇所では、人に内側に起こる「神の霊的支配」を教えられました。「王国」と訳されたギリシャ語は「バシレイア」であり、「支配」という意味があります。ですから「神の国」=「神の支配」と考えることが出来ます。したがって人の心が神様の支配の中にあるなら、その人の中には「神の国」があると教えているのです。次の聖書箇所も同様のことを教えています。
ローマ 14:17 なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。

三、天国についての教え
 私たちが天国と呼ぶ神様がおられる場所は、新改訳聖書の翻訳では「神のみもと」「神の御座」などで示されていて、次の聖書箇所には、天国へ行った人の状態が記されています。
黙示7:15 それゆえ、彼らは神の御座の前にあって、昼も夜もその神殿で神に仕えている。御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる。
7:16 彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。
7:17 
御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」
 使徒パウロは死後のことについて次のように書いています。
Ⅱコリント 5:8 私たちは心強いのですが、むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと思っています。


 聖書を学んで驚くことの一つは、天国についての教えは少ないということです。そして天国に住むのは一時的であり、神様のご計画は私たちが地上の「神の国」において主イエス・キリストと共に住むことが最大の祝福として約束されているのです。
 「聖書が天国についてあまり教えていないのなら、がっかりです」という方々もおられるでしょう。しかし聖書が教えている「神の国」は天国よりもっと素晴らしい場所だと私は思います。なぜなら「神の国」は霊的な場所ではなく、目に見える地上なのです。そこで私たちはよみがえり、新しい栄光の体を与えられ、何一つ不自由がなく、神様の祝福の中でキリストと共に生きるからです。この地上で味わった苦しみや悩みから解放され、愛に満ち、最高の満足を得ながら住むのですから、これ以上の幸せはないと言えるでしょう。それは神様が人間を創造されたときに神様が望まれた人間との麗しい関係の中で生きることであり、「神が人と共に住まれる」という奥義の実現なのです。

 

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『日の出る国(ひのいづるくに)』・・・厩戸王厩戸皇子

聖徳太子大戦略

日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。

齋藤先生は授業の冒頭でいきなり黒板にこう書いて言った。「さあ、読んで下さい。読めないところはホニャラと読みましょう」。小学校6年生の子供たちを先生は列ごとに指名して、順番に読ませていく。

「ひのでるショのテンシ、ショを、ニチボツするショのテンシにいたす。ホニャラなきや」

わけのわからなさに笑いが起こる。初夏の風が通う教室は和やかな気分につつまれた。『学校で学びたい歴史で紹介されている齋藤武夫先生の授業風景である。

「大変よく読めました。ほとんど正解と言っていいでしょう。それではふつうの読み方を教えましょう。」と言って先生は、こう読み上げた。

「ひいづるところのテンシ、ショを、ひぼっするところのテンシにいたす、つつがなきや」

先生について、子供たちに後を続かせる。その後、子供たちだけで声をそろえて二度ほど読ませる。皆で一斉に読むので斉読」と呼んでいる。

誰が誰に出した手紙でしょう?

「これは、歴史上たいへん有名な手紙の書き出しです。ある意味で日本の歴史の中で最も重要な手紙だと言えるかも知れません。誰が誰に出した手紙でしょう?」

先生の問いかけに、一人の生徒が答えた。「聖徳太子からツツガナキヤさんに出した。」

「すばらしい。聖徳太子は半分正解です。ですが、ツツガナキヤは人の名前ではありません。この手紙は、当時の女性天皇だった推古天皇の摂政、今で言えば総理大臣だった聖徳太子が書いて推古天皇の名でどこかの国のトップに出したものです。国書と言って、国から国へ出した手紙です。どこの国に出したのでしょう」

「中国だと思います」とすかさず、別の生徒が答える。

「大正解。この国書は推古天皇から中国の皇帝にあてた手紙です。出されたのは西暦607年、この国書を出すまでの100年ほどの間、日本は中国との直接のつきあいはありませんでした。中国はいくつかの国に分裂して争っていたからです。

ところが、ちょうど聖徳太子の頃、隋という大帝国が中国を統一します。聖徳太子は中国から進んだ文化を学ぼうとして、遣隋使という使いを中国に送りました。その代表が小野妹子です。『妹子』ですが、この人は男性ですよ。この国書は、小野妹子が隋の皇帝に渡したものです」

ここで齋藤先生は、もう一度、手紙の文章を皆で斉読させた。漢文の歯切れの良いリズムが子供たちの体に心地よく響いてくる。それは聖徳太子の強い意志を伝えるかのようだ。

 

 

 

 

 

 

と称えました。