1960年の日米安全保障条約改定をめぐる交渉で、核兵器を積んだ米軍艦の日本寄港を事前協議なく認める密約を両政府が交わしていたことを示す米公文書が見つかった。この密約を日本政府は認めていないが、さらなる検証が必要なことを示す発見だ。▼3面=非核政策の原点あいまい

 

密約、認めぬ日本政府 非核政策の原点、あいまいなまま 米公文書

 

2024年5月19日 5時00分

 

米軍核搭載艦の日本寄港をめぐる密約の経緯を示す米公文書には、両政府の生々しいやり取りが記されている。日本政府はそれでも密約を認めず、非核政策の原点を曖昧(あいまい)にしたまま、緊張を増す国際情勢に臨んでいる。▼1面参照

 今回見つかった米公文書によれば、日米安全保障条約の改定交渉で、藤山愛一郎外相は核搭載艦の寄港を事前協議制度の対象外とすることを了解。核持ち込みを認める密約が交わされた。

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 藤山外相は1959年6月のマッカーサー駐日大使との会談で、この密約に関する機密文書の作成を拒む理由を「長々と説明」した。大使は「後に責められるのを避けたい岸(信介首相)の望みは十分理解する」としつつ、「将来の誤解を避けるため不可欠」と迫る。最終的に両政府は60年1月、密約に関する「討議記録」を作成した。

 核搭載艦の日本寄港をめぐっては、61~66年に駐日米大使を務めたライシャワー氏が81年、大使就任前から両政府間に了解があったと発言するなど、日米安保体制の密約の一つとされてきた。

ライシャワー 何した人?
 
エドウィン・ライシャワーは、日本人にとって最も馴染みのあるアメリカ人の一人として記憶されている。 その生涯はアメリカの対日理解と日本の対米理解のために捧げられたケネディ政権時代の駐日大使として活躍したばかりではなく、ハーバード大学の教授として、日本研究に多大なる実績を残した。

 

 外務省は民主党政権下の2009~10年に日本政府保有の文書だけを調査。「討議記録」の写しなど対象の秘密指定文書を開示した。だが、「討議記録」に「現行の手続きに影響を及ぼすとは解釈されない」とある点については、米軍の核搭載艦寄港は事前協議の対象外という意味とは思わず、入港料を課さないなど艦船全般の手続きの話と考えていたなどと説明。「日米間で認識の不一致があったと思われる」とし、密約が交わされたとは認めず、曖昧なままにした。

 一方、外務省が設けた有識者委員会は10年、両政府がその後のやり取りで認識の不一致に気付きつつ放置したことで、核搭載艦の寄港に関する「広義の密約」が1960年代に固まったと判断。また、日本側の重要文書の不存在や欠落を遺憾とし、管理への反省を求めた。今回の一連の米公文書を入手した信夫隆司・日本大学名誉教授も「改定交渉中の文書は米側に比べ管理がずさんだ」と話す。

 佐藤栄作首相が「持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則を表明したのは67年。日本政府は、核搭載艦の寄港に加え、領海通過も事前協議の対象と説明してきた。また、「冷戦終結後の米国の核政策に加え、米国は我が国の非核三原則をよく理解していることから、現状において(核搭載艦の寄港は)想定されない」(2022年の林芳正外相の国会答弁)としている。

 「冷戦終結後の米国の核政策」とは米軍艦に戦術核を載せないことを指す。ただ、トランプ前政権は中ロの核戦力強化を批判し、海洋発射型の核巡航ミサイル開発へ動いた。今年の大統領選でトランプ氏が勝てば、米国の核政策を見直す可能性もある。

 

 ■「不完全な記録、外交力弱める」 識者

 中島琢磨九州大学教授は「米国が核搭載艦を東アジアに展開し中国を抑止しようとする場合、事前協議は不要とする米国にどう日本は対応し、国民に説明するのか。原点にあたる安保条約改定交渉に関し日本側の記録が不完全なことは外交力を弱める」と指摘する。

 編集委員藤田直央

 文書は1958~60年の条約改定交渉に関する二十数点。信夫(しのぶ)隆司・日本大学名誉教授(日米外交史)が、米国の国立公文書館NPOの国家安全保障公文書館(NSA)で2004年以降に入手し、精査した。

 岸信介首相は1958年2月、領海を含め日本に核兵器を持ち込ませないと国会で答弁したが、米政府は核搭載艦が自由に寄港できる環境を維持しようとした。

 一連の米公文書によると米国務省は58年9月、マッカーサー駐日大使に、条約改定で新たに設ける事前協議制度について訓令を出した。核兵器の日本領土への配置は事前協議の対象とする一方で、「核搭載艦の日本の領海、港への立ち入りは過去同様に続き、事前協議の対象にならないとの確認を求める」よう指示する内容だった。

 翌月、大使は岸首相同席の場で藤山愛一郎外相と交渉を開始。その場で訓令通りに伝えた、と国務省に報告した。

 大使は59年4月、「事前協議は、航空機の立ち入りや艦船の領海、港への立ち入りの手続きを含む、米軍とその装備の日本への配置に関する現行の手続きに影響を及ぼすとは解釈されない」と念押しした。藤山外相は「受け入れた」と応じた。

 この日米の「了解」について米国務省は5月、「後続の日本の政権でのいかなる誤解も避けるため」に機密文書を作るよう指示。藤山外相は抵抗した。岸首相の国会答弁に反する機密文書が漏れた場合の政権への打撃を恐れたとみられる。

 最終的には大使の要請に押され、山田久就・外務事務次官が6月、大使に「藤山は秘密の解釈了解を交渉記録という形にする可能性を考えている」と伝達。大使と藤山外相は60年1月6日付の「討議記録」に署名した。

 中島琢磨九州大学教授(日本政治外交史)は「岸内閣で政治判断ができた藤山外相が機密文書作成に応じた背景がわかり、貴重だ。日本の非核政策の原点に関わる問題で、外務省は事実関係を調べるべきだ」と話す。

 日本外務省はこの密約について2009~10年に調査し、確認できなかったと発表。外務省幹部は今回の米公文書も「日本政府の立場を揺るがすものではない」としている。編集委員藤田直央