ある朝、目覚めると、グレゴール・ザムザは「巨大な毒虫」になっていた。フランツ・カフカの『変身』である。どんな虫になったのか。以前の邦訳からは自分なりのイメージが持てたのだが、最近、それが揺らいでいる。いくつもの新訳を読んだからだ
▼例えば、「途方もない虫」とか「馬鹿でかい虫」といった訳がある。「化け物じみた図体(ずうたい)の虫けら」とも。作家の多和田葉子氏の訳に至っては、原文をカタカナで記し、「生け贄(にえ)にできないほど汚(けが)れた動物或(ある)いは虫」とする
▼何やら、虫ではない可能性もあるらしい。独語の辞書をひけば、ネズミのような小動物も含んだ意味の単語だという。うーむ。何だかよく分からない。いったいグレゴールは、何に変身したのだろう
▼実はこれこそ、カフカの狙いなのかもしれない。多くの文学者が指摘することだが、『変身』の本の扉絵に「昆虫そのものを描くことはいけません」とする手紙を、作家はわざわざ出版社に送っている
▼あえて彼は、分かりやすいイメージを読者に与えないようにしたのではないか。得体(えたい)の知れない生き物に自分が変質する。その自分とは何か。変わるとは何なのか。優れた小説は深遠な問いを読者に投げかけ、自由な想像を促す
▼「生きることは、たえずわき道にそれていくことだ。本当はどこに向かうはずだったのか、振り返ってみることさえ許されない」。そんな言葉を残し、カフカは40歳で亡くなった。きょうでそれから、ちょうど100年になる。
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