そこは「魚(いお)湧く海」と呼ばれるほど豊かな漁場でした。九州本島と天草諸島に囲まれた不知火(しらぬい)海。波穏やかな海を見下ろす丘の上に水俣病の相談窓口があります
▼国が公害病と認めてから55年。いまも訪ねてくる患者、電話やメールは絶えません。手足のしびれや痛み、めまいや耳鳴り。開設する水俣病センター相思社には一様ではない症状やつらい経験を訴える声が寄せられてきました
▼「なんでこのおれが水俣病じゃないんだ」。幼いころ不知火海周辺で魚を主食にくらしたという関西在住の患者。都会での仕事とかけもちする中で症状が悪化しましたが、認定申請は棄却されたと憤ります(『みな、やっとの思いで坂をのぼる』)
▼原告はいずれも水俣病と認定―。これまで国や熊本県に切り捨てられてきた被害者の救済を求める判決が大阪地裁でありました。地域や年代で線引きしてきた従来のやり方を一蹴。発症の実態は距離や時間で単純に区切れるものではない、と
▼狭く小さくが水俣病の救済で国がとってきた態度でした。実際に国の基準で認められた患者は3千人ほど。しかし潜在患者は10万人以上ともいわれ、声を上げてたたかってきたことで救済の輪が広がってきた経緯があります
▼戦後日本の公害の原点とされる水俣病。国はまともに調べもせず責任逃れに終始してきました。それは被爆者や原発の被害者をはじめ、あらゆる場面で。「こんなことで棄(す)てられて、たまるか」。先の患者の叫びはすべての被害者に通じています。