日本の高齢化率が35%に迫る2040年、働き手の中心となる現役世代(15~64歳)は約2割減る。社会を支えるサービスの必要量は増えるのに担い手は減少する「8がけ社会」での大災害にどう向き合うべきか。人口減を先取りする能登半島での地震を踏まえ、各地の模索が続く。▼1面参照
■インフラ修繕、市職員DIY 「地方はもう後進国」 熊本・玉名市
能登半島地震では、耐震性の低いインフラが被害を広げ、復旧を遅らせる要因となっている。だが、人手不足が常態化する自治体の現場では、老朽インフラの修繕は後回しにされがちだ。
全国共通の問題に熊本県玉名市が出した答えは「DIY(自分で修繕)」だった。
国は2014年、中央道笹子トンネルの天井板崩落事故を受け、全ての橋やトンネルを5年に1回点検するように自治体などに義務づけた。
16年3月時点で、玉名市にある823の市道の橋のうち点検済みは17。橋の基本情報を記した台帳はなく、架設当時の設計図も廃棄されていた。
点検・修繕を先送りすれば、橋の管理コストは上がり、災害時のリスクも高まる。職員を増やし、橋の数や位置、幅や長さなどを記録するところから始めた。
だが、点検で危険な橋が見つかっても、人手や財源の不足で修繕が追いつかない自治体は多い。
そこで玉名市は、予防保全の観点から対応が必要な橋に絞り、市土木課の職員が自前で修繕を始めた。排水装置の清掃や難しくない漏水補修から手がけた。いまの担当者は技術系を中心に20~40代の職員。技術と知識が身につくと、建設業者に適切な施工指導ができるようになり、工事コストも抑えられた。
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<50年超の橋19万> 日本全国で道路にかかる橋は約73万ある。主に高度成長期に整備が進み、このうち約19万は建設から50年以上経った。全体の3割弱にあたる約21万は建設年すらわかっていない。そうした橋の7割近くは、玉名市のような政令指定市以外の市区町村が管理している。
市土木課の木下義昭さん(48)は「インフラの老朽化の最前線は市町村で、現場で生じているのは撤退戦。いかに被害を少なくし、リソースを残して次の戦いに挑むか。『しんがり』をやっているイメージ」と語る。
インフラの修繕は遅れているのに、40年には現役世代は今の8割に減る。その間もインフラは古くなり、ひとたび大災害に見舞われると、地域社会を再建不能にするほどのダメージを与える。
「日本という国は先進国でも、地方はもう後進国です。その中でどのようにやっていくか」
異例の対応で臨む玉名市の取り組みには、リスクが伴うかもしれない。それでも木下さんは「僕らが毎日やっていることが、20年後の人たちの役に立つかもしれない。それをやりがいにするしかない」
(阿部彰芳)
■限界、自助も共助も公助も 沿岸、高齢化率50% 北海道・釧路市
人口16万人の北海道釧路市は今年、津波発生時に住民約900人が避難できる「津波避難複合施設」(避難ビル)の整備に取りかかる。だが、それだけでは命を守れないことに焦燥感を募らせる。
冬の夕方、日本海溝・千島海溝沿いを震源とする巨大地震が起きれば、津波避難場所がなく、早期避難率が低いという最悪の場合、人口の半数超が犠牲になる。
避難ビル建設予定地の大楽毛(おたのしけ)地区は揺れの30分後、ほぼ全域が浸水する。地区内で最も海沿いの町内会の高齢化率は50%超。ビルへの避難に助けが必要な住民は多く、今後高齢化が進めば、避難に必要な「自助」の力はさらに弱まっていく。
釧路市の蝦名大也市長は「公助にも限界がある」と話す。東日本大震災直後、市は高齢者らに電話をかけ、職員が避難支援に当たったが、連絡がつかない人は多かった。蝦名市長は職員が避難を支援する計画は「机上の空論だった」と認め、「公助がない前提で発災直後を生き延びる準備をお願いしたい」と率直に語る。
地域の力による「共助」で乗り切る方法も、高齢化と現役世代の縮小が同時に進む「8がけ社会」では困難が伴う。
「自助、共助、公助」のいずれも限界を抱えるなか、北海道大の岡田成幸・名誉教授のチームは、千島海溝周辺の地震で津波が起きた場合の釧路市の被害シミュレーションをもとに「長いスパンで考えると、危ないところに住まわせない対策が必要」と指摘する。
事前の対策で犠牲者を大幅に減らせても、高齢者の避難する力が衰える中で犠牲者をゼロにはできない。2045年時点での人口や年齢構成で予測すると、さらに死亡率は上がるという。
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<集団移転も困難> 逃げられないなら事前に集団移転するしかない――。釧路市職員に問うと「難しい」と言葉を詰まらせた。
事前の集団移転が命を守る選択肢だとしても、慣れ親しんだ土地から離れることへの反発は避けられない。余力がある世代だけが移転すれば、支援が必要な高齢者だけが残り、困難さを逆に高める懸念も否定できない。
能登半島地震では、耐震化の遅れや道路の分断、高齢化率の高さなどが被害を拡大させた。蝦名市長は「備えの重要性を痛切に感じたが、すぐに対応できる話ではないから難しい」と語る。時が経つほど厳しい条件が重なる中、被害を最小化するための模索が続く。
(太田原奈都乃)
■復興未来図、若者に託した 還暦以上、口出さず 宮城・女川町
東日本大震災で人口の約1割が犠牲になった宮城県女川町。震災から13年を経て、町の顔立ちは一変した。
町中心部には駅や温泉、役場、商業施設などが集まる。時代のニーズに合わせて新しいものに建て替えやすいようにと、至る所に将来を見据えた設計が施されている。
そんな持続可能なまちづくりを提言したのは、商工会や水産関係の団体などで作る「女川町復興連絡協議会」(FRK)の30~40代のメンバーだった。
震災から1カ月後、FRKの設立総会で当時の商工会会長の高橋正典さん(73)が言った。
「還暦以上は口を出さず、10年後20年後の責任世代に復興やまちづくりを託す」
まちの長老たちは、次の世代のために「道」を空ける方針に賛同した。
「若いお前が町のトップをやるべきだ」。そんな声を受けて、FRKの一員で県議だった当時39歳の須田善明さん(51)が震災8カ月後の町長選に立候補。当時66歳だった現職は立候補せず、須田さんが後を継いだ。
震災前から人口減少が深刻さを増していく予測はあった。震災はその流れを一挙に加速させた。
町の人口は震災前の約1万人から5900人へと大きく減った。それでも、町外から若者が集まって起業する動きが、まちに活気を与えている。
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<能登のヒントに> 逆境を見越して主要機能を集約し、外からの力を活気に変えた女川はいまや「復興のトップランナー」とされる。将来の主役世代が当事者となって未来図を描き、その実現に力を合わせてきた歩みは、能登半島の復興へのヒントとなる。
石川県珠洲市出身の大学生安宅佑亮さん(23)は2月、そんな女川町を訪れ、復興に携わった関係者に話を聞いた。珠洲に戻ると、FRKのような組織作りに着手し、市民がまちづくりを主体的に話し合う集会を始めようと訴えた。
冷たい反応もあった。「大事なのはわかる。でももう少し待ってくれ」。それでも、集会の呼びかけにオンラインを含めて50人の市民が集まった。
「これからの珠洲の話をしよう」。そう呼びかけた集会を2度開いた安宅さんは4月、震災直後から中断していた留学先の上海に戻った。同級生のほとんども地震前から珠洲を離れている。若者中心でまちづくりを進める理想の実現は難しい。それでも、手応えも感じた。「自分たちでまちの未来を考える一歩は踏み出せた」
(中山直樹、笹山大志)