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「人間の自由」と社会主義・共産主義――『資本論』を導きに 2024年5月14日(火)

2024年5月14日(火)

「人間の自由」と社会主義共産主義――『資本論』を導きに

学生オンラインゼミ 志位議長の講演(2)

第一の角度――「利潤第一主義」からの自由

Q9そもそも「利潤第一主義」とはどういうことでしょうか?

もうけを増やすことへの限りない衝動が生産の推進力

パネル7

パネル7

 中山 それではまず第一の角度――「利潤第一主義」からの自由についてお聞きします。そもそも「利潤第一主義」とはどういうことでしょうか? まずそもそも論からお話しください。

 志位 資本主義では、生産は何のために行われるか。マルクスは、『資本論』で、“資本主義では、資本のもうけを増やすことへの限りない衝動が、生産の推進力――生産の動機となり目的となる”と繰り返し言っています。私たちはこれを「利潤第一主義」と呼んでいるんです。

 マルクスは『資本論』で「資本の魂」という言葉を使ってそのことを表現しています。これは私の“意訳”ですが、パネルをご覧ください。(パネル7)

「資本の魂」(マルクス資本論』から)

 “資本にはただ一つの衝動があるだけである。労働者をできるだけ働かせて、できるだけ儲(もう)けを大きくして自分の資本を大きくする衝動だ。これが「資本の魂」であり、吸血鬼のように、労働者から「生きた労働」を吸い出せば吸い出すほど、元気になり、力も強くなっていくのが資本である”

 マルクスは「吸血鬼」という言葉まで使っているのですが、さっき紹介した「オックスファム」の「報告書」の超富裕層のもうけぶりは、「吸血鬼」という言葉がぴったりくるのではないでしょうか。もちろんこれは、超富裕層の人々の個々人の人格を批判しているわけではありません。「資本家」である以上は、そういう「資本の魂」を持たざるを得なくなってしまうということが、マルクスが言ったことなのです。

 中山 その人が悪い人だからとか、良い人だからとかいうことではないんですね。衝動に突き動かされているということですね。

 志位 ある企業の代表がどんな人格者であっても、資本家としては「資本の魂」をもって行動するということです。「衝動」という言葉が使われていますが、抑えがたい力で突き動かされるということですね。

Q10「利潤第一主義」は資本主義だけの現象なのですか?

過去の搾取社会と比べても「利潤第一主義」が特別に激烈

パネル8

パネル8

 中山 「利潤第一主義」は、資本主義だけの現象なのですか?

 志位 ここで人類の歴史に目を向けて考えてみたいと思います。

 人類の社会の最初は、原始共同体(原始共産主義)と言われる搾取のない社会が長い間続きました。この社会が崩壊した後に、人類の社会は、奴隷制封建制、資本主義など、人間が人間を搾取する搾取社会に交代していきます。資本主義の前の搾取社会――奴隷制封建制でも、支配者が生産者をできるだけこき使って、できるだけ多くの富を得ようとすることでは共通していました。ただ、資本主義社会は、この衝動が、過去の搾取社会に比べて特別に激烈なんです。パネルをご覧ください。(パネル8)

資本主義では「利潤第一主義」が特別に激烈

1、追求する富は「カネ」の量
2、儲けを市場で競い合う自由競争の社会
3、「生産のための生産」が合言葉

 第一は、追求する富が「カネ」の量だということです。つまり追求する富の内容が違う。過去の搾取社会では、富は「モノ」の豊かさで示されて、「モノ」の豊かさが追求されました。たとえばヨーロッパの絶対王政の時代では、フランスのベルサイユ宮殿など豪華絢爛(けんらん)な宮殿が富の象徴でした。さかのぼって奴隷制の時代でいえば、巨大な王の墓――エジプトのピラミッドや、古代日本の巨大古墳などが富の象徴でした。「モノ」の豊かさで表現される富にはおのずと限度があります。豪華絢爛な宮殿でも、巨大なお墓でも、たくさんはいりません。ベルサイユ宮殿は一つあれば十分で、二つも三つもいらない。ところが、資本主義社会では、追求する富は「カネ」の量です。「カネ」はいくらあっても困りません。多ければ多いほどよい。だからこれを増やそうという衝動には限度がなく、果てしがありません。

 第二は、資本主義社会が、資本家同士がもうけを市場で競い合う自由競争の社会だということです。もうけが少ないものは没落し、淘汰(とうた)されてしまいます。それは資本家の生死をかけたたたかいです。だから資本家の意思にかかわりなく、またその資本家が善意なのか悪意なのかにもかかわりなく、競争が強制されます。強制的に競争に追い立てられるのです。ここまであからさまにもうけを競い合う社会は、かつて歴史に登場したことはありませんでした。

 第三に、「生産のための生産」が合言葉だということです。資本主義の社会では、富の蓄積というのは、おカネをただため込むというものではありません。おカネは、ただ手元にため込んでいたら、もうけを生んでくれません。資本家は、つぎ込んだ資本がもうけを生んだら、その全部または一部をふたたび生産に投じて、より多くのもうけを獲得しようとします。こうして新たな資本をたえず生産に投じます。こうして「生産のための生産」に突き進め! これが資本主義の合言葉になります。

 これらの点で、「利潤第一主義」がかつてないほど激烈に展開されるのが資本主義です。マルクスはここに、資本主義の一番の根源となる病理を見ました。

 中山 カネもうけの衝動が特別に激しいと。

 志位 そうです。

Q11「利潤第一主義」はどんな害悪をもたらすのですか?

「貧困大国・日本」――「貧困が一気に拡大、社会の底が抜けてしまった」

パネル9

パネル9

 中山 「利潤第一主義」は、具体的にどんな害悪をもたらしているのでしょうか?

 志位 大きく言って、二つの害悪を指摘したいと思います。

 第一は、貧困と格差の拡大です。

 第二は、「あとの祭り」の経済です。ちょっと耳なれないかもしれませんが、これについては後で説明します。

 まず貧困と格差の拡大ですが、「利潤第一主義」の矛先が、最も過酷な形で集中するのは働く人――労働者です。それはさまざまな労働苦――貧困と格差の拡大となってあらわれます。さきほど、世界的規模で貧困と格差が途方もなく広がっていることを話しましたが、日本はどうか。次のパネルを見てください。(パネル9)

 主要先進国貧困率の最新値を調べてグラフにしてみました。日本の2021年の相対的貧困率は15・4%に達しました。「貧困大国」と言われるアメリカの18・0%には及びませんが、韓国を抜いて、主要先進国・第2位の「貧困大国」となっています。相対的貧困率というのは、年間の等価可処分所得(手取り収入を世帯員の数で調整したもの)の中間値の半分額未満の所得しかない人の割合です。日本では、127万円未満の人が、相対的貧困とされています(21年)。6・5人に1人が貧困状態にあるのです。

 「新宿ごはんプラス」という取り組みをご存じでしょうか。

 中山 はい。ニュースで見ました。

 志位 先日、「毎日」の夕刊(24年4月24日付)にずいぶん大きく出ていました。生活に困っている方を対象に、東京都庁の真下のスペースで、毎週土曜日、無料の食事提供と、暮らしや健康のワンストップ相談会を行っている取り組みです。毎週、この取り組みに参加してきた医師で日本共産党比例東京ブロック予定候補者の一人、谷川智行さんにお話を聞いたところ、最近、次のような特徴があるとのことでした。

 「食料配布、相談会に来られる方がコロナの後、爆発的に増えています。コロナ前はホームレス状態の方がほとんどでしたが、現状では、家がある、仕事がある、保険証を持っているが、生活に困窮されている方がほとんどです。貧困が一気に拡大し、社会の底が抜けてしまった印象です」

 「若い人では圧倒的に非正規ワーカーが来られます。多くの非正規ワーカーが会社の都合で使い捨てにされても抗議も抵抗もできず泣き寝入りの状態に置かれています。雇用破壊が日本社会を根底から壊したと痛感します」

 「毎日」の記事では、食料配布が行われる都庁の壁面には毎夜、きらびやかな映像(プロジェクションマッピング)が流れるとのべ、「必要なのは、闇夜にピカピカ光る映像ではなく、セーフティーネットの強化ではないのか」と言っています。

 中山 民青同盟も食料支援活動をコロナ禍以降始めています。学生の貧困はとても深刻です。高い学費を自分で払っている、生活費のためにほとんどの人がバイトをし、生活はカツカツです。

 志位 打開のためにみんなで力を合わせようと言いたいと思います。

Q12資本主義のもとでなぜ貧困と格差が拡大していくのでしょうか?

富の蓄積と貧困の蓄積のメカニズム――搾取の鎖を断ち切ろう

パネル10

パネル10

 中山 資本主義のもとで、格差と貧困がなぜ拡大していくのでしょうか?

 志位 マルクスは『資本論』で、まず工場の内部で搾取がどのように強化されていくのかの分析を徹底的に行っています。そのうえで視野を社会全体に広げ、社会全体の規模で格差が拡大していくメカニズムを明らかにしています。

 マルクスは『資本論』のなかで、資本が蓄積されていくと、技術革新によって、景気が良いときであっても労働者が「過剰」になる、そして「過剰」になった労働者を職場からたえずはじき出すプロセスが進むことを明らかにしています。経済が発展しているのに、仕事につけない「過剰」労働者がいつも大量に存在するという状態が、資本主義社会では当たり前になっていく。

 資本主義が生み出す、現役労働者の数を超える「過剰」な労働者人口のことを、マルクスは「産業予備軍」と呼び、そうした失業、半失業の労働者の大群を生み出すメカニズムを『資本論』で明らかにしました。資本主義社会では、失業は決してなくなりません。資本主義の国で失業者がゼロの国はありませんよね。

 中山 言われてみればありませんね。

 志位 ありません。そしてマルクスは、これは職場からはじきだされた労働者にとってはたいへんに不幸なことですが、資本家にとってはこれ以上都合のよい存在はないのだとのべています。つまり、資本家は、「この労働条件で嫌なら結構ですよ。もっと安い賃金でも働きたい人はたくさんいるのですよ。あなたの代わりはいくらでもいる」。こう言えますよね。すなわち「産業予備軍」――大量の失業者の存在は、労使の力関係を、資本家にとってすごく有利にしてしまいます。

 マルクスの『資本論』のなかには、次のような有名な一節があります。パネルをご覧ください。(パネル10)

富の蓄積と貧困の蓄積(マルクス資本論』から)

“「産業予備軍」を絶えずつくりだす法則は、ヘファイストスの楔(くさび)がプロメテウスを岩に縛りつけたよりもいっそう固く、労働者を資本に縛り付ける。一方の側の富の蓄積は、その対極における働く人の貧困、労働苦、奴隷状態などの蓄積である”

 中山 ギリシャ神話からの例えなのですね。

 志位 そうです。ここに出てくるプロメテウスとは、ギリシャ神話のなかの巨人です。プロメテウスは、天界の掟(おきて)を破って、鍛冶――鉄を鍛えて道具をつくる職人――の神・ヘファイストスの鍛冶場の火を盗んで人間にあたえました。そのためにプロメテウスは最高神ゼウスの怒りを買って、山の頂に鎖で磔(はりつけ)にされました。その鎖を岩に打ち込む楔を鍛えたのが、鍛冶の神ヘファイストスでしたが、この楔はどんな力でも外せない特別製の楔だった。それぐらいの強靱(きょうじん)さをもって、労働者階級を資本の支配と貧困のもとに置くのだということを、ギリシャ神話を使ってマルクスは告発しました。

 中山 とても印象的で、どれだけ逃れられないかが伝わってきますね。

 志位 そうですね。そして現在の日本を見ますと、恐ろしいほどこの法則が働いています。低賃金と不安定雇用の非正規ワーカーが、働く人の4割、若者や女性の5割以上に達しています。これはいわば、現役労働者を「予備軍化」したものです。こういう状態は、非正規ワーカー自身を劣悪な条件のもとに置いて苦しめているだけではありません。「あなたの代わりはいくらでもいる」と脅しつけて、正社員を過酷な労働に縛りつけ、働くもの全体の貧困をひどくしている――これがいま働いている仕掛けなのです。

 もちろん、ここでマルクスが言いたかったのは、“貧困の蓄積は資本主義の法則だから我慢せよ”ということではありません。“資本主義が、こういう仕組みで貧困と格差を社会と人間に押し付けてくるのであれば、資本主義そのものの変革に進もうではないか。現代におけるヘファイストスの楔――資本主義の搾取の鎖を断ち切るたたかいに立ち上がろうではないか”――これがマルクスがこの告発に込めたメッセージでした。

 非正規ワーカーとして働いている人の劣悪な労働条件は、労働者みんなの問題です。正社員として働く人も、非正規ワーカーで頑張っている人も、みんなで団結して貧困と格差を押し付けてくる政治を変え、社会を変えようではありませんか。

Q13「あとの祭り」の経済とはどういうことですか?

繰り返される恐慌、気候危機=「物質代謝の大攪乱」

パネル11

パネル11

 中山 志位さんはさきほど、「利潤第一主義」の第二の害悪として、「あとの祭り」の経済と言いました。これはどういうことでしょうか?

 志位 マルクスは『資本論』で、資本主義の社会では、「社会的理性」が、いつも“祭りが終わってから”はじめて働くと特徴づけました。これは言葉をかえると「あとの祭り」の経済になるということです。

 中山 「あとの祭り」になると。

 志位 ええ。資本主義社会では、生産の計画的な管理が可能なのは、個々の企業の内部だけのことです。社会的規模では競争が強制されますから、「生産のための生産」が無政府的に行われる。そのために生産のいろいろなかく乱が起こり、「社会的理性」が働くのは“祭りが終わってから”になる。つまり、「あとの祭り」になる。こういう特徴があります。

 中山 具体的にお話しください。

 志位 たとえば資本主義のもとでは、バブル経済と恐慌が絶えず繰り返され、なくなることはありません。人々が飢えや窮乏に陥るのは、資本主義以前の社会にもありました。しかし、社会に生産物がありあまっているのに、人々には物が不足し貧困におちいるという現象は、資本主義で初めて始まった固有の現象です。

 恐慌のもとにあるアメリカの炭鉱労働者のことを書いたあるパンフレットに、次のような物語があったといいます。

 「ある炭鉱夫の子ども『こんなに寒いのに、どうしてストーブをたかないの?』

 母親『うちには石炭がないんだよ。父ちゃんが失業したから、石炭が買えないんだよ』

 子ども『ママ、父ちゃんはなぜ失業したの』

 母親『それはね。石炭が多すぎるからだよ』」

 石炭が家にないのは、石炭が多すぎるから。本当に資本主義とは矛盾に満ちたシステムではないでしょうか。資本主義では、周期的にバブル経済――いくらでも売りまくって大もうけをあげる時期があり、そのあとで必ず恐慌がきます。そのことがわかっていても、バブル経済と恐慌を繰り返さざるを得ません。わかっているけどやめられない。バブル経済のさなかの時には、みんな株が永遠にあがり、好景気が永遠に続くと錯覚するんです。ところが、バブルは必ず破綻する。その繰り返しをしている。つねに「あとの祭り」が繰り返されるのが資本主義です。

 次のパネルをご覧ください(パネル11)。人類の歴史で主な恐慌が起こった年を列挙してみました。

人類の歴史における主な恐慌

1825年(英国)、1837~38年(英国)、1847年(英国)、1857年(ここからは世界恐慌)、1866年、1878年、1882年、1890年、1900年、1907年、1920年、1929年(世界大恐慌)、1937年、1957年、1974年、1980年、1991年、2000年、2008年(リーマン・ショック

 中山 こんなに起きているんですね。

 志位 主なものだけで19回になります。恐慌は最初はイギリスだけの現象でしたが、1857年からは世界恐慌となって、繰り返されています。直近のものは2008年のリーマン・ショックに始まる世界恐慌です。

 近年における日本経済では、1980年代後半に途方もないバブル経済が起こりました。どんどん経済が膨れ上がって、株も上がりました。ところが90年代に入ってバブルの崩壊が起こり、そこから「失われた30年」と言われる経済停滞に入りました。

 2008年のリーマン・ショックのさいには、派遣労働者がどんどん仕事を失い、東京のど真ん中に「派遣村」が出現しました。一方で大企業の工場は止まっている。一方で、街には労働者が放り出される。両者は一体になれば働けるのに一体になれない。これが恐慌です。そして恐慌は資本主義の不治の病です。なくそうと思ってもなくせない。

 中山 このままいくとまた起きてしまうということですか。

 志位 資本主義のもとでは治すことは不可能だと思います。ただし、こういうことが言えます。恐慌が起こった後には、「あとの祭り」ではありますが、「社会的理性」が働き、経済はまともな軌道に戻っていくわけです。

 この点で、「あとの祭り」の経済がつくりだすものだけれども、「あとの祭り」には決してしてはならない大問題があります。それが冒頭お話しした気候危機です。こればかりは「あとの祭り」にするわけにはいきません。

 マルクスは人間と自然の関係をどう考えたか。マルクスが生きた時代は、18~19世紀初頭に起きた「産業革命」から間もない時代です。ですから、地球的規模の環境破壊は問題にならなかった時代です。それでも『資本論』を読むと、この問題を考える手掛かりになる大事な叙述があるんです。

 マルクスは、『資本論』のなかで、人間の生産活動、経済活動を、「自然と人間との物質代謝」と呼びました。「物質代謝」とは、もともとは生物学の言葉です。すべての生命体は、外界から栄養物質などをとりこんで、体のなかで変化させて、自分に必要な物質につくりかえ、エネルギー源にしたうえで、不要な部分を体外に排出します。これを「物質代謝」と言います。マルクスは、この言葉を使って、人間が労働によって、自然からさまざまな物質をとりこみ、それを加工して自分の生活手段にすることを、生命体になぞらえて「自然と人間との物質代謝」と呼びました。

 『資本論』を読んでいて驚くのは、資本主義のもとでの「利潤第一主義」による産業活動によって、自然環境の破壊が起こることを早くも告発していることです。これをマルクスは、「物質代謝」の「攪乱(かくらん)」と表現しています。マルクスが『資本論』でとりあげているのは、資本主義のもとでの「利潤第一主義」の農業生産です。もうけ第一で自然がどうなろうとお構いなしという農業経営によって、土地の栄養分がなくなって荒れ地になってしまう。そうすると農業そのものが成り立たなくなってしまう。そうした事態を、マルクスは「物質代謝」の「攪乱」と表現しました。これは、現代に恐るべき規模で起こっていることの先取り的な告発ですね。

 中山 そうですよね。びっくりしました。

 志位 いま起こっている気候危機は、地球的規模での「物質代謝の大攪乱」です。でもこればかりは「あとの祭り」にしてはならなりません。人類は、この最悪の社会的災害を、「あとの祭り」になる前に、「社会的理性」を働かせて、解決することができるかどうかが問われています。

 資本主義のもとでも、その解決のためにありとあらゆる知恵と力を尽くす必要があります。しかし、その解決ができないのであれば、資本主義には退場してもらって、次の社会に席を譲ってもらわなければなりません。

 中山 こればかりは「あとの祭り」にしてはならないと。しっかりかみしめて、私たちも気候危機打開の活動にとりくんでいきたいと思います。

Q14どうすれば「利潤第一主義」をとりのぞくことができるのですか?

「生産手段の社会化」によって、「自由な生産者が主人公」の社会をつくる

写真

(写真)学生オンラインゼミであいさつする志位和夫議長=4月27日、党本部

 中山 害悪だらけの「利潤第一主義」ですが、どうすればこれをとりのぞくことができるのでしょうか?

 志位 生産の動機と目的そのものを変える社会変革が必要になってきます。資本主義のもとでは、生産手段――工場とか機械とか土地とか、生産に必要な手段を資本が握っています。そのことから資本はこれを最大限に使って、自分のもうけを最大化しようとする。それがさきほどお話しした「利潤第一主義」を生んで、いろいろな害悪をつくりだす。どうすればこの問題を解決することができるか。マルクスが出した答えは、「生産手段の社会化」――生産手段を個々の資本家の手から社会全体の手に移すということでした。

 中山 なるほど。

 志位 そうしましたら、生産の推進力が変わります。生産の目的と動機が変わります。がらりと変わります。つまり個々の資本家がもうけを果てしなく追求する「利潤第一主義」にかわって、生産の目的と動機が「人間と社会の発展」のためということになるじゃないですか。このことによって、人間は、「利潤第一主義」から自由になる。これが私たちの大展望なんです。私たちは、この「生産手段の社会化」を資本主義から社会主義に進むさいの変革の中心に位置づけています。

 中山 「社会化」というのは「国有化」ということですか?

 志位 「生産手段の社会化」といいますと、「国有化」を連想される方も多いかと思うんですが、私たちは「国有化」が唯一の方法と考えていません。生産手段を社会の手に移すには、いろいろな方法や形態があって、情勢に応じて、いちばんふさわしい方法や形態を、国民多数の合意で選んでいけばいい。その「青写真」をいまから描くことはできないし、描くことは適切でないというのが、マルクスエンゲルスの考えでした。社会進歩の道を前進するなかで、みんなで見いだしていく。

 私が、ここで強調しておきたいのは、建前上は、「生産手段の社会化」がやられていたとしても、肝心の生産者が抑圧されているような社会は、社会主義とは無縁だということなんです。崩壊してしまった旧ソ連社会がそうでした。旧ソ連には「国有化」はあった。「集団化」もあった。しかし肝心の生産者がどうなっていたか。抑圧され、弾圧され、強制収容所に閉じ込められ、囚人労働が経済の一部に位置づけられていました。こんな社会は、経済の土台の面でも社会主義とは無縁の社会だったと、日本共産党は大会の決定でそういう歴史的判定をやっています。そして、こういう社会を「絶対に再現させてはならない」と、綱領で固く約束しています。

 マルクスは『資本論』で、社会主義共産主義の社会を、「共同的生産手段で労働し自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する自由な人々の連合体」と呼びました。「自由な生産者が主人公」の社会が、私たちの目指す社会主義共産主義の社会だということを、うんと強調しておきたいと思います。

 中山 「自由な生産者が主人公」というのは、今まで言われてきた社会主義共産主義像と全然違いますね。

Q15「利潤第一主義」から自由になると、人間と社会はどう変わるのですか?

貧困と格差から自由になり、「あとの祭り」の経済から自由になる

 中山 それでは、「利潤第一主義」から自由になると、人間と社会はどう変わるんでしょうか?

 志位 「利潤第一主義」がもたらす二つの害悪という話をしましたでしょう。「利潤第一主義」から自由になると、まさにこの二つの害悪から自由になる。

 中山 解放される?

 志位 解放される。

 第一に、貧困と格差、労働苦から自由になります。生産手段が社会全体のもの――人間の連合体のものになれば、生産物の全体が人間の連合体のものになる。人間は搾取から自由になり、貧困や格差から自由になります。

 労働の性格も大きく変わるでしょう。マルクスは、1864年に、労働者の国際団体――国際労働者協会(インタナショナル)を創立したさいに執筆した宣言のなかで、こう言っています。

 「賃労働は……やがては、自発的な手、いそいそとした精神、喜びに満ちた心で勤労に従う結合的労働に席をゆずって消滅すべき運命にある」

 他人の生産手段のもとで、他人のもうけのために、他人の指揮のもとで働く労働では、非人間的な労働苦は避けられません。それにかわって、各人の自由な意思でつくった連合体がもつ生産手段のもとで働くようになれば、未来社会での労働は、本来の人間的性格を回復するだろう。これが私たちの展望です。そして、これはあとで詳しくお話ししますけれども、搾取がなくなるもとで労働時間の抜本的短縮が実現して、人間は長時間労働から自由になります。

 第二に、「あとの祭り」の経済から自由になります。資本主義的な生産は、無政府性を特徴としますが、生産手段が自由な生産者の共同体である社会の手にうつった未来社会では、生産の意識的計画的な管理が初めて可能になるでしょう。人間は、恐慌と不況から自由になります。気候危機をもたらすような環境破壊からも自由になります。さきほど「社会的理性」というお話をしましたが、「社会的理性」が「祭り」が終わってから初めて働く社会にかわって、はじめから働く社会になります。

 これを考えただけでも、「利潤第一主義」からの自由は、「人間の自由」を素晴らしく拡大するものになるという展望を持つことができるのではないでしょうか。

Q16「生産手段の社会化」と「自由」は深く結びついているということですね?

人類史の圧倒的期間は、生産手段を共有した自由で平等な共同社会だった

パネル12

パネル12

 中山 「生産手段の社会化」は「自由」と深く結びついているということですね。このことについてさらにお話しください。

 志位 “「生産手段の社会化」と「自由」”について、どうお話ししたらいいかと、いろいろと考えてみたんですが、人類の歴史で考えてみたいと思います。

 人類の歴史の起源を見ますと、原始共同体といわれる時期が、少なくとも数万年という単位で続きました。どの社会も、いちばん最初は、原始共同体から始まったと考えられています。この社会では、共同体に属している生産者が、共同の生産手段を使って、自然に働きかけていました。人間による人間の搾取のない、平等な社会でした。この時代の生産力はとても低い水準だったわけですが、その社会はどんなものだったか。

 マルクスは最晩年の時期に、モーガンというアメリカの人類学者が書いた『古代社会』(1877年)という著作に出会い、その内容にびっくりして、詳細なノートをつくるんです(『ルイス・ヘンリ・モーガンの著書「古代社会」の摘要』、1880~81年)。1883年にマルクスが亡くなったあとノートが残りました。エンゲルスがこれを発見して、とても重要なノートだということで、これを本にまとめなきゃと考えて、『家族、私有財産及び国家の起源』(1884年)という著作にまとめました。

 モーガンは、アメリカ先住民の研究にとりくみ、現在のニューヨーク州に定住していたイロクォイ族をとくに詳しく研究し、原始共同体がどんな社会だったかを明らかにしていきます。イロクォイ族は、五つの部族に分かれていて、それぞれの部族はいくつかの氏族に分かれており、社会の単位となっていました。成年の男女氏族員の全員からなり、みんなが平等な投票権をもつ民主的な会議――氏族会議が最高の決定機関であり、リーダーの選挙や解任なども、すべて氏族会議によって決められていました。マルクスが遺(のこ)した「モーガン『古代社会』の摘要」から、この社会の特徴を記した部分を紹介します。パネルをご覧ください。(パネル12)

マルクスモーガン『古代社会』の摘要」から(1880~81年)

「イロクォイ族の氏族のすべての成員は人格的に自由であり、相互に自由を守りあう義務を負っていた。特権と人的権利においては平等で、サケマや首長たちはなんらの優越も主張しなかった。それは、血族の紐帯(ちゅうたい)で結ばれ兄弟団体であった。自由平等友愛は、かつて定式化されたことはなかったとはいえ、氏族の根本原理であった。……インディアンの性格の普遍的な属性である独立精神と個人的威厳とは、これによって説明される」

 アメリカ先住民の氏族社会は、無定型・無規律な集団ではなく、共同の規律をもって組織された、自由な人々の秩序ある協同組織だったのです。これが、長い間続いていた原始共同体の一つの姿です。

 日本における原始共同体では、1万年以上の期間にわたって続いたと言われる縄文時代の発掘と研究が進んでいます。青森県にある三内丸山遺跡が有名です。数十人から数百人という集団が共同生活を送っていたようです。獲得した食料は、働けない人――老人、子ども、障害者などにも平等に分けられていた。経済は民主的に管理、決定されていました。縄文時代の遺跡からは、足の骨を折ってしまった老人、難病にかかった若者など、社会的弱者へのケアが行われていたことが人骨で確認されています。そして、この社会は人を殺すための武器がなかった、戦争がない平和な社会だったことも発掘から明らかになっています。

 これらが長く続いた人間社会の姿なのです。人類史の圧倒的に長い期間は、生産手段は共同体のみんなのものでした。つまり生産者と結びついていました。そしてそれは、生産力が低い水準ながらも、自由で平等な人間関係の社会でした。ただ一言いっておきたいのは、この社会では、個人は共同体と“へその緒”でつながっており、共同体の一部であり、共同体の規則に無条件に従わねばならず、本当の意味で独立した個性とはなりえなかったという面もありました。そういう制約はあるのですけれども、人類史の起源に、こういう自由で平等な共同社会があったというのは、未来への大きな展望にもつながる胸が熱くなる話ではないでしょうか。

 中山 動物的な生活をしていたわけではなかったのですね。

 志位 そうですね。生産者と生産手段が結びついた、自由で平等な共同社会が、たいへんに長く続いた人間社会の姿でした。

 ところが、階級社会になって、これが根本から変わっていきます。階級社会には、奴隷制封建制、資本主義という主に三つの時代がありますけれど、共通しているのは、生産者と生産手段が切り離されているということです。生産手段は、他人である支配者の持ち物になってしまい、生産者は、他人である支配者のために働くという社会に変わってしまったのが、階級社会でした。その意味で、階級社会は、「自由」ではありえない社会になったのです。

 ただ、この階級社会は、長い人類史のなかで、せいぜい数千年です。日本の場合はもう少し短い。数万年という単位で続いた原始共同体と比べたら、はるかに短いのです。原始共同体では、生産手段は共同でみんなでもって、生産手段は生産者と結びついていたわけですが、人類の長い歴史でみたら、生産手段を共有する自由な社会こそが、当たり前の社会だと、言えるのではないでしょうか。

 そして社会主義共産主義社会というのは、自由な意志で結合した生産者の集団が、生産手段を所有する社会ですが、これは人類史的に見れば、高い次元で、生産者と生産手段の結びつきという当たり前の姿を回復する社会ということが言えるでしょう。

 マルクスは、資本主義社会を人類最後の搾取社会とみなし、こう言っています。

 「この社会構成体(資本主義社会のこと――引用者)をもって人類社会の前史は、終わりを告げる」(『経済学批判・序言』、1859年)

 人類社会の「前史」は資本主義でおしまいになる。つまり社会主義共産主義への変革は、人類史の「本史」への発展となる――これがマルクスの壮大な展望でした。「生産手段の社会化」というのは、長い人類史のなかで、圧倒的な期間を占める生産手段をみんなで持つ社会――自由で平等な共同社会を、高い次元で復活させるという、人類史的意義を持っているということを、私は言いたいと思います。

 中山 今の階級社会とか、他の人が生産手段を持っている社会というのを、私たちは、いま当たり前に過ごしているんですけれど、それを人類史でみると、本当にわずかな期間だと知ると、人間の可能性というものを感じられるような気がしました。

 志位 その通りだと思います。

Q17「生産手段の社会化」と「自由」を論じたマルクスの文献を紹介してください。

「フランス労働党の綱領前文」では「自由」をキーワードに論じた

パネル13

パネル13

 中山 「生産手段の社会化」と「人間の自由」との関係を論じたマルクス文献について、さらにお話しください。

 志位 ここで紹介したいのは、マルクスが、最晩年の1880年に作成した「フランス労働党の綱領前文」です。1879年、フランスでマルクス派の社会主義勢力がフランス労働党を創立します。その中心になったジュール・ゲードらが、マルクスエンゲルスに綱領をつくるうえでの援助を申し入れます。1880年、ゲードがマルクスエンゲルスが住むロンドンにやってきて、エンゲルスの家でマルクスと会い、綱領草案づくりの作業をしました。マルクスは、エンゲルスの目の前で、ゲードに口述筆記させて綱領草案をつくりました。パネルをご覧ください。(パネル13)

「フランス労働党の綱領前文」(マルクス、1880年)から

「生産者は生産手段を所有する場合にはじめて、自由でありうること、
 生産手段が生産者に所属することのできる形態は、次の二つしかないこと、
 一、個人的形態――この形態は……工業の進歩によってますます排除されつつある、
 二、集団的形態――この形態の物質的および知的な諸要素は、資本主義社会そのものの発展によってつくりだされてゆく、
 ……フランスの社会主義的労働者は、経済の部面ではすべての生産手段を集団に返還させることを目標として努力する」

 マルクスはまず、「生産者は生産手段を所有する場合にはじめて、自由でありうる」とのべています。生産者が生産手段と切り離されて、他人の生産手段のもとで働かされ、他人の指揮のもとで働かされ、その成果も他人の物になってしまう、そこでは搾取と抑圧が起こり、人間の「自由」はありえない。生産者が生産手段を自分で持つ場合に、人間ははじめて自由でありうる。ここから出発するわけです。

 ここから論をおこしていって、「生産手段が生産者に所属することのできる形態」――生産者が生産手段を持つことができる形態は、論理的に考えて、二つしかないと論を進めていきます。

 一つは、個人的形態――個人で小さな生産手段を持つことです。たとえば自分の小さな土地で耕作する農民、あるいは自分のわずかな用具で物をつくる職人、そういう小経営です。しかしこれは、「工業の進歩によってますます排除されつつある」。実際に、そういうプロセスが進んでいる。

 もう一つは、集団的形態――集団で生産手段を持つことです。マルクスは、「この形態の物質的および知的な諸要素は、資本主義社会そのものの発展によってつくりだされてゆく」と言っています。どういうことかと言いますと、資本主義が発展して、機械制大工業へと発展していきますと、そうした大きな生産手段は、一人の労働者が動かしているわけではありません。労働者の集団が動かしているわけです。労働者の集団が生産手段を動かしているという点では、生産手段の集団的所有のための物質的な要素はつくりだされつつあるといえる。そういう意味なんです。

 こうしてマルクスは、「自由」をキーワードにして、「生産手段を集団に返還させること」、つまり「生産手段の社会化」を、わずか数行の論立てで導きだしています。“自由を得るためには生産手段を持つことが必要だが、一人では持てないからみんなで持とう”。これが「生産手段の社会化」だと言っています。ここで言われている「自由」という言葉は、搾取からの自由、抑圧からの自由を意味していると思いますが、もう一つ含意があるように思います。

 中山 なんでしょう?

 志位 次にお話をする「人間の自由で全面的な発展」につながる「自由」です。これも含まれているように思います。マルクスが、「生産手段の社会化」を「自由」をキーワードにして論じたことは、たいへん重要な意味を持っていると思います。ぜひ心に留めておいてほしいなと思います。

 (つづく)