徒然なる儘に ・・・ ⑤

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中曾根康弘 首相在位期間 1982年11月27日 - 1987年11月6日

ロン・ヤス外交とは❓

 

念頭にソ連、正念場の中曽根氏 ロン・ヤス緊迫の初会談

古賀大己 藤田直央

 

 外務省による定期的な外交文書公開が12日にあり、1980年代前半の対米、対中関係に関連する文書などが明らかにされた。当時の中曽根康弘首相がロナルド・レーガン米大統領との初めての首脳会談で、貿易摩擦で安易な譲歩をしない一方、安全保障で踏み込んだ発言をしていた様子が詳細に記録されていた。

 

2017年の外交文書公開

外交文書公開

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 今回公開された外交文書のファイル=外務省の外交史料館

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1956年と80年代の出来事

 

 

 

 

 




 

 両氏の関係は「ロン・ヤス」と呼ばれ、日米の蜜月時代の代名詞になった。公開文書には、最初の会談で率直なやりとりを交わし、信頼関係を作っていく様子が表れている。

 中曽根氏の首相就任から2カ月足らずの83年1月、両首脳は米ワシントン・ホワイトハウスの大統領執務室で会談した。通訳のみを同席させた場で、中曽根氏はこう述べた。「民主党が政権に復帰すれば米国が保護主義の道をたどることは明らかだ」

 当時、貿易摩擦が日米の最大の懸案のひとつだった。貿易収支は日本の黒字が常態化し、米側は日本に市場開放を要求。特に、農産物の関税引き下げを強く求めていた。

 経済が低迷していた米国の失業率は10%超。日本製の自動車や電気製品があふれ、労働者中心に不満が高まっていた。現在の米国でトランプ次期大統領を生んだとされる雰囲気に似た「内向き志向」が広がり、日本製品輸入を排除する立法の動きも出ていた。

 中曽根氏は会談で「84年は大統領選だ。民主党候補は『公正な貿易』問題を取り上げている」と指摘した。レーガン氏は「特に下院の圧力が高まっている。保護主義を抑えきる自信がない」と打ち明け、日本の市場開放がカギを握ると繰り返した。

 中曽根氏は「両国とも自由貿易体制の維持発展を目指している」と応じつつ、続けた。「日本も統一地方選参院選を控える」「具体的政策では米国と異なることもあり得ると理解願いたい」

 自民党を支える農業団体は米国産の牛肉・オレンジの輸入自由化に反対し、デモを繰り広げていた。中曽根氏も正念場だった。

 関係閣僚を交えたその後の会談で、中曽根氏は「日米は運命共同体」と強調。「政権が倒れない程度で努力する」とも伝えた。それでも日本側の譲歩を求める米側の担当閣僚の発言は続き、元俳優のレーガン氏はこう語った。「無死満塁で三振を取るヒーローを映画で演じたことがある。首相も自分も同様の状況にある」

中曽根氏、対米協力に力点

 貿易摩擦で譲れない中曽根氏が切ったカードは、ソ連を念頭に置いた対米協力だった。この会談記録は研究者らが開示請求してきたが、日本の防衛強化に関するやりとり部分は黒塗りだった。今回の文書公開で明らかになった。

 会談では、ワインバーガー国防長官が「防衛協力は双方の戦略上極めて重要」と日本の防衛費増を要請。レーガン政権は82年、当時は極秘扱いだった国家安全保障戦略で「日本は自身と相互の防衛により貢献すべき」としていた。

 中曽根氏は防衛強化について3点を具体的に語る。「四海峡を完全にコントロールし、有事にソ連の潜水艦を日本海に閉じ込める」「ソ連の(爆撃機)バックファイアーの日本列島浸透を許さない」「シーレーン海上交通路)の確保」。有事に来援する米軍艦や日本への商船を守るのが、シーレーン防衛だ。

 78年にできた日米防衛協力の指針(ガイドライン)をふまえた内容で、中曽根氏は「シーレーン防衛の共同研究結果もふまえ防衛体系を整備したい」と表明。ただ、外務省は3点に関する部分を「取扱厳重注意」とし、会談後の記者団への説明で伏せた。

 実は中曽根氏は、会談前のワシントン・ポスト紙朝食会でも同じような発言を行っていた。この場では「日本列島を不沈空母に」と語ったと報じられたこともあり、野党から「米国を守る集団的自衛権の行使にあたる」などと批判された。

 首脳会談の記録には、集団的自衛権についての明確な言及はなかった。ただワインバーガー氏が「アジアで海空軍を相当に増強しつつあるソ連に対抗するため日米は能力、資源の結集を」と求めると、中曽根氏は「日米の防衛力は安保条約を通じ補完し合う」と賛同。日米一体でソ連を封じる姿勢を示した。

 一方、今回公開された朝食会の記録によると、中曽根氏は「オフレコ」と前置きしたうえで、こう強調していた。「防衛費が対GNP(国民総生産)比1%を来年にも超えよう。国際的役割を考えればやらざるを得ない」。76年に閣議決定した「GNP1%枠」を突破できるよう国民を説得する姿勢を示した。

 日本海海峡封鎖を含むシーレーン防衛の日米共同研究を踏まえ、自衛隊ではイージス艦や潜水艦、対潜哨戒機P3C、戦闘機F15の増強が進んだ。防衛費は87年度にGNP比1%を超え、中曽根氏は「公約」を果たした。(古賀大己、藤田直央

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 《広田秀樹・長岡大教授(国際政治)》 中曽根・レーガン時代は日米関係のモデルと言える。米国の戦略を日本が支えることで良好な関係が生まれ、日本の政権が安定する。当時の米国の戦略の要はソ連台頭への対処だ。首脳会談記録を見ると中曽根氏はそれをよくとらえ、防衛強化で補佐する姿勢に徹している。

 会談で自由貿易体制の大切さを確認しつつ貿易摩擦問題を先鋭化させなかったのも、ソ連への対抗で日米の対立を避けるためだ。レーガン氏は中曽根氏の市場開放への努力を評価し、焦点の牛肉・オレンジでの要求は担当閣僚に任せている。首脳間の信頼関係構築への配慮が感じられる。

 このように全体のバランスがとれた日米関係を、トランプ新政権とも築くべきだ。米国は80年代同様に保護主義へ傾いているが、自由貿易による発展と、それを支えるアジア太平洋の安定という戦略をまず共有すべきだ。

 《吉田真吾・名古屋商科大専任講師(日本政治外交史)》 中曽根氏が首脳会談で防衛強化を具体的に語った意味は大きい。日米の防衛当局間では共有されていた内容だが、中曽根氏は政治レベルで明確な意志を示してレーガン氏と関係を深め、米国と相互に補完する防衛体系の整備にも言及して当局間の協力を後押しした。

 ソ連の軍拡が進んだ80年代、日本は自国防衛で米軍と円滑に連携できるよう防衛力整備を進めた。他方、米国は太平洋で日本と一体でソ連を封じ込める戦略をとった。同床異夢ながら、自衛隊には今も最前線に立つ兵器が導入され、防衛協力も着実に進展した。

 今の日本に防衛費を大きく増やす余力はなく、脅威がソ連に限られた当時と異なり、北朝鮮の核・ミサイル開発や中国の台頭で安全保障情勢は複雑だ。日米の防衛協力に制約がある中、政治レベルでの認識の共有がより重要になっている。

 

2024・06・23(日曜日)新聞赤旗(日曜版)第二十九面

 

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